和田秀樹「能力を高める 受験勉強の技術」



        (講談社現代新書/¥700+税)



能力を高める 受験勉強の技術

能力を高める 受験勉強の技術


 作者は精神科医。むしろ受験技術などの著作で有名である。

 彼の経歴は華々しい。彼自身言うところの「受験勝ち組」で、関西の代表的な進学校である灘中・灘高を経て、東大医学部に進学した。その経験から独自の勉強法を編み出し、和田式受験勉強法と名付け、それに基づいた受験指導や著作で有名である。


 本書の趣旨は大きく二つ。和田式受験勉強法の紹介と、受験勉強・詰め込み教育批判に対する反論。要するに「受験勉強は、日本の知的能力開発のためには必要なもの」というのが彼の主張である。

 「和田式受験勉強法」については、僕はとりたてて感想を持たない。和田の方法をもとに受験生がそれぞれ受験勉強のやり方を確立して、大学に合格する者が出るのなら、それはそれで有意義だろう。和田のいうように、受験勉強に意味があるのは、個別の知識内容を詰め込むからではなく、能力開発としての側面があるからである、という指摘も、至極まっとうなものだと思う。

 しかし、本書を教育全体を俯瞰する書として読むと、粗雑な論理がどうしても気になってしまう。

 

受験戦争は少年犯罪を抑制しない


 たとえば、昨今の学力低下の原因についての和田の論は、こんな具合である。

 89年に改訂された学習指導要領が中学校で全面採用になったのが1993年。この改訂は、ペーパーテストの点だけでなく、授業中の「関心・意欲・態度」なども加味して、通知表や内申点をつけていこうという改訂であり、和田に言わせると「ペーパーテストで点数を上げることに昔ほどの価値を見出さなくなった子どもが増え」、「この評価方法の改訂は、一部の子供たちには、常に監視されているというストレスを与えたようだ。これが施行された93年以降、全国の中学校において、校内暴力、生徒間暴力、不登校が激増したのである(19ページ)」


 「1993年以降の校内暴力・生徒間暴力・不登校の激増」と「学習指導要領の改訂」を結びつけるのは無理があるのではないか。1993年以降、子どもの問題行動が増加した一番の理由は、愛知県西尾市立東部中学二年の大河内清輝君の自殺(1994年)などのショッキングな事件により、学校バッシング・教師バッシングが強まったためである、つまり、学校がいじめに敏感になり、そのために報告数が上昇したのだ。報告される問題行動の数と、実際の問題行動の数は、必ずしも一致しているとは限らない、というのが当時現場で学校バッシングに憤慨していた一教師としての実感である。


 また、本書にはこんな記述もある。

 小見出しは「負荷や課題を与えた方がよい」。受験競争の激しかった時期(60年代から80年代)の10代の自殺率の推移や主要刑法犯の少年の検挙率の減少、93年以降の校内暴力、生徒間暴力、不登校数の増加をあげ、「少なくとも、これらの数字を見る限り、はげしい受験勉強が心にいいとまでは即断できないが、心に悪いという根拠はどこにもない、むしろ、心によさそうだということを示唆する数字が並んでいるのである(58ページ)」と和田は言う。


 いくらなんでもそれはないだろう。彼の論理は「風が吹けば桶屋がもうかる」式である。「十代の自殺や問題行動の少なかった時期が、受験勉強の激しかった時期と重なる。よって、受験は『心によい』」と、まるで受験勉強が自殺や少年犯罪を抑制するかのように言う。しかし、受験生が少年犯罪の担い手ではない。受験からとっくの昔にドロップアウトしている層の方が、少年犯罪を犯す比率が高いことを、普通の教師なら誰でも知っている。学力の底辺層は、今も昔も大学受験の圧力とは無縁である。それでも、「大学受験の激化が少年犯罪を抑制した」と和田は言うのだろうか。


受験の勝者のための哲学


 また、本書には、受験の勝者の章がわざわざ設けられている。第4章「受験勉強で身につけた能力をどう活用するか」がそれである。

 和田は「受験の勝者から社会の成功者へ」という小見出しをつけ、次のように述べる。「受験の勝者がこれからの時代の社会を生き抜くための身につけなければいけない力とは何か、あるいは受験で身につけた能力を汎用化するために何が必要かを、私が考えうる限り提起してみたい(138ページ)

また、別の箇所には「なぜ受験勉強がうまくいったかを考え、分析する」という小見出しがある。


 受験戦争で敗者になった人もいるはずだが、敗者になった人には特別なアドバイスはない。おそらく、灘中・灘高から東大医学部に進学した和田にとって、本書でイメージしている人間のモデルは、かなり優秀な人間であり、エリートたちなのだ。頭の悪い人は眼中にない、ということだろうか。

 本書が受験圧力を強めるべきだ、という社会システムの変更をも提案するなら、低劣な社会的立場にある人々に対する視点がないままのシステム構築などありえない。本書はエリートの方法論として有効でも、教育全体を俯瞰する書としては客観性を欠き、成立していないと僕は思う。


 和田は言う。学歴社会というのは、階層の逆転可能性を含む重要なシステムだと。僕もそう思う。しかし、和田の論の進め方だと、あまりにも高学歴層の利益を優先しているように映る。結局は文化資本や従来の意味での「学力」を持つ(和田のような)者をもっと優遇しろ、能力を持たない者は淘汰されてしまえ、というふうに読めてしまうのである。

 

熾烈な競争社会で「下の方の人」にメリットはあるのか


 学力競争について、こんな記述があった。

 「私のような受験勝ち組がそんな話をすると、自分たちを優遇しろとか、自分たちの価値を認めろとでか言っているように聞こえるかも知れない。

 そうではなく(そういう面もまったくないとは言い切れないかも知れないが)、競争というもので最も恩恵を受けるのは、下の方のものだと言いたいのだ、たとえば、勉強のできる人、好きな人は、放っておいても勉強をする。しかし、下の方の人は競争にさらされていないとまったく勉強をしないかも知れない(202ページ)」


 余計なお世話である。

 和田が高みから「下の方の人」という言葉を使うことに僕は虫酸が走る。

 国や社会から見れば、「下の方の人」が勉強をするのは、日本人の学力低下が叫ばれている昨今、「大衆社会のレベルの底上げ」と言う観点からは、好ましいことかも知れない。「競争の教育」とかいうことを時の文部科学大臣が口にする時代だ。

 だが、それは社会にとっての恩恵だろう。和田は「下の方の人」が恩恵を受けるという。熾烈な競争社会に巻き込まれることで、「下の方の人」にどんな恩恵があるというのだろう。「下の方の人」も勉強をするようになるといった程度のことを考えているのか。しかし、少ない文化資本で熾烈な競争社会に巻き込まれることは大きな負担である。「下の方の人」にとって、その大変さより、得るものの方が多いとでもいうのだろうか。


 熾烈な学歴社会は、一握りの「学校エリート」「勉強エリート」こそがより強い恩恵を受けるシステムに他ならない。受験勉強の勝者が人生の勝者になるということなら、「下の方の人」は、もちろんその「踏み台」になるしかないのである。