「BICYCLE NAVI」2005年春号の疋田智氏のエッセイ





BICYCLE NAVI no.16 (2005.sprin (別冊CG)

BICYCLE NAVI no.16 (2005.sprin (別冊CG)


 さて、愛知万博関連第4回(連続としては3回目)である。

 ブログの内容にいつも示唆的なメールを下さるヨン様(爆)氏から、新しいメールをいただいた。そのメールには「愛知って哲学にちなんだ名前なの?」とあった。

 「愛知」はギリシャ語「フィロ(愛)ソフィア(知)」の訳語。「哲学」と訳されるが、古代ギリシャの哲学は学問一般のことである。

 もちろん、ヨン様(爆)氏は、「愛」と「叡智」を標榜するはずの万国博覧会が、愛と叡智にほど遠いのではないか、という批判的なスタンスで書いているのである。

 「愛知(県)」は、果たして「哲学」の県なのだろうか。


愛はうさん臭い


 ということを考えていたら、ふと雑誌「BICYCLE NAVI」2005年春号が目にとまる。

 連載「ヒキタサトシの自転車ツーキンでいこう!」がちょうど愛知万博についての言及だったからだ。こんな書き出しである。


 「私ヒキタは「愛・地球博」を応援しています。ってね。昨今こんなに気恥ずかしいキャッチコピーもないね。何よりいきなりの「愛」がいかん、愛が。もうこういうセンスの名付けはやめてくれんかのう、と思うのは私だけなんだろうか。地方の商店街とかに行くと「ふれ愛ロ〜ド〇〇商店街」なんて幟が掲げられていたりするが、あのセンスと何ら変わらない」(1)


 おお、ここにも万博のキャッチフレーズ「愛」に疑問を呈する者がいる。

 疋田智は、テレビ局勤務の傍ら、自転車や自転車通勤についてのエッセイを執筆している、自転車マスコミでは有名な人物である。自転車雑誌の彼のインプレッション記事などを見ると、おかしいことにはメーカーにも社会にもきちんと異議を唱えていて、前々から気骨のある書き手だと僕は思っていた。


電動アシスト自転車のかかえる問題点


 自転車のエッセイなので、内容は自転車のことになる。

 愛知万博でも使われていた「自転車タクシー」についての言及が大部分を占める。市販の「電動アシスト自転車」について彼は問題点を整理する。こんな具合だ。


 「電動アシスト自転車は、現在あるひとつの課題を抱えている。

 93年にヤマハ「パス」が登場した当時、この製品は諸手をあげて市場に受け入れられた。要するに大ヒットとなった。主婦の欲しい潜在需要を掘り起こした、と、色々なビジネス誌で紹介された。

 ところが、各社が参入し、値段と重量が下がり、バッテリーが高性能化し、電動アシスト自転車が書く段に良くなるに伴い、皮肉なことに売上げは次第に頭打ちになっていったのだ。

 なぜか。何がよくないか。通常の開発物語ならば、ここで「地上の星」でもかかり、実験に次ぐ実験、リサーチに次ぐリサーチ、努力に次ぐ努力がお約束となるわけだが、この問題の場合違った。技術者たちにはとっくに理由がわかっていたからだ。

 ・・・・(中略)・・・・問題は「レギュレーション」なのだ。

 今さらだが「電動アシスト自転車」は「電動自転車」ではない。あくまで人力を電動で「アシストする」自転車だ。それゆえ免許が必要とされない。その手軽さが受けたと言えば、その通りなのだけれど、その代わりに厳格な規定がある。先述したように、モーターは人力を超える力を与えてはならず(つまり1対1未満)、それも24km/hに至るまでには、アシスト推進力をゼロにしなければならない、という部分だ。

 ところが、ここのところが実は現状にあっていないことが分かってきた」(1)


行政による許認可の制限が、未来への可能性の足かせとなっている


 疋田は、ヤマハのEV普及担当、坂村氏の意見を引用しながら、現行の制度では交通弱者である女性が電動アシスト自転車の恩恵を受けることができていないと述べる、勾配5.5%程度の坂で言えば、1対1のアシストをおこなったとしても、この坂を自転車で上りきることのできる女性は、わずか4割にしかすぎないというのである。

 そもそも電動アシストを必要としている層は、力の弱い女性とお年寄りのはずである。専門家である坂村氏の意見にしたがえば、現行よりもアシスト比を増やし、1対3にすれば、実に9割の女性が勾配5.5%の坂を上れるというのである。

 ここでも、くびきは「行政」だ。行政による許認可の制限が、未来への可能性の足かせとなっている。メーカーは製品化できることが前提で開発をおこなうから、行政が柔軟な姿勢を持たないと、行政が恣意的に作った枠の中に「人類の叡智」が押し込められてしまう。

 行政のあり方を変えれば多くの人が恩恵を受ける。ヤマハの坂村氏は、警察庁交通局に対して「駆動補助機付自転車の基準改正要望」とその書類を再三提出し、レギュレーションを変えるべく陳情中とのことである。

 

平均スピード6km/hの欺瞞


 疋田は「愛・地球博」の自転車タクシーにも言及する。こんな具合だ。

 「自転車タクシーの平均スピードはわずか6km/hなのだという。私はこのスピードに大きな疑問を感じざるを得ない。そりゃスローライフも悪くはないさ。たまには時速6kmでゆるゆる自転車タクシーに乗ってみるのもいいかもしれない。

 だが、こと「環境」ということで自転車を採用するのなら、自転車は「クルマの代用」になってはじめてエコロジカルな交通手段になり得る、ということを忘れてはならない。それにはスピードを手に入れないと話にならないのだ。自転車タクシーは本物のタクシーの代用になってはじめて、エコロジカルな交通手段となり得るのだ。そういう意味では、愛知万博で走る自転車タクシーは、何となくの「雰囲気エコ」「イメージエコ」という範疇を出ていない。

 別段30kmも出して、突っ走れというわけではない。たとえば都内のクルマの平均スピードは、慢性的渋滞の中、約12kmだと言われる。まあ実感としてもその程度だ。それを超えればいいだけなのだ。たとえば平均15km/hで自転車タクシーが都内を巡航できたとする。そうなったら、それは便利でエコロジカルであろう」(1)


 「愛・地球博」が、「地球環境問題、人口問題、食糧問題、エネルギー問題など、人類の存在の根幹にかかわる、さまざまな問題」に対する回答の方向性を「自然の叡智に学び・・・・見出そうという挑戦的な試み(2)」であるとするならば、時速6kmの自転車タクシーは、僕の目にも「エコのアドバルーン」に映る。本気で社会を変えていこうとする熱と意欲に欠けているのではないか。

 愛知万博は行政主導のイベントである。吉見俊哉「万博幻想−戦後政治の呪縛」や前田栄作「虚飾の愛知万博」で見てきたように、それゆえに今の行政のかかえる問題点をそのまま反映しているように見える。行政が主導権を握ることで、人類の未来を見つめる視点が限定されてしまうとしたら、本末転倒もはなはだしい。未来を見つめる目は、行政の論理を越えて遠くを見通さなければならない。「愛・地球博」という名称が内容と齟齬をきたしているのが愛知万博の実体である。


行政は「愛知万博で、愛を叫ぶ」


 それにしても、どうして行政は「愛」を謳うのだろう。

 「愛は地球を救う」とするならば、その愛は、何者にも優先する無限の実質を伴うはずだ。そうでなければ地球は救えない。某放送局のいう「愛」もまた、矮小化された「愛」だ。

 行政の枠の中の「愛」など、本来的な「愛」と言えるわけがない。それでも行政は「愛」を叫ぶ。大きいものは万博から、小さいものは町内の老人会まで。こうした「愛」の氾濫に、疋田氏とともに、僕はうさん臭いものを感じるのである。そういえば、戦時中もまた、空しい行政主導のスローガンが撒きちらかされた時期であった。

 本当の「愛」とは限定されたものではない。行政によってもたらされるものは、「限定されたサービス」にしかすぎないのである。


 冒頭で触れた「愛知」という名前の由来は、「ここ」に載っているhttp://www.pref.aichi.jp/koho/profile/oitachi.html。哲学とまったく関係のない由来であり、僕はちょっとほっとした。


(1)いずれも『「愛・地球博」を走る自転車タクシーを見に行って、電動アシスト自転車の「未来」について考えた』(BICYCLE NAVI/2005 SPRIG)よりの抜粋


(2)『2005年日本国際博覧会愛知万博)基本計画「はじめに」』より抜粋