伊藤進「ほめるな」



       (講談社現代新書 700円+税)



ほめるな (講談社現代新書)

ほめるな (講談社現代新書)


 あなたが親なら、子どもをほめて育てていませんか? あなたが教師なら、児童・生徒・学生をほめて育てていませんか? あなたが上司なら、部下をほめて育てようとしていませんか?

 現在、子どもや若者をほめて育てるということが、ごくあたりまえのことのように広く日本の社会にゆきわたっています。子どもや若者を育てるには、すこしでもいいところをみつけてほめてやればよい−ほとんどの人がこのことに疑いをさしはさもうとしません。

 しかし、「ほめる教育」には思わぬ落とし穴がひそんでいます。かりに短期的には効果的だったとしても、長期的にみると結局は子どもや若者をだめにしてしまいかねない育て方なのです。看過できない弊害が存在するのです。(3ページ)


 平易に書かれた「ほめる教育」に対する批判。

 ほめる教育は「内発的動機づけ(「アモーレ情熱」と著者はいう)」をこわしてしまうなど弊害が多い,「ほめる教育」ではなく、相手をひとりの人間として尊重した、双方向的なコミュニケーションに基づく「インタラクティブな支援」が大切だ、と著者はいう。


 「ほめるな」にはエピソードが多く紹介されている。たとえばこんなふうだ。

 バスの中で歌を歌っていた3人の女子中学生に注意をしたところ「なぜ歌を歌ってはいけないのですか」という返事がかえってきた。説明してやると今度は脅迫まがいの言辞。マナーも身につけていない中学生たちの、このうすっぺらな自信は何なのだ、と著者は述べる。

 そうした事例を、著者は「ほめる教育」の弊害に結びつける。「これももちろん、「ほめる教育」だけのせいにするわけにいきません」と断りつつ「しかし、「ほめる教育」が無縁だとは思えないのです」と結ぶ。

 だが、「ほめる教育」とこの女子中生たちの増長は関連があるのだろうか。著者はそのことを明らかにしない。たとえば彼女らの通っていた中学が「ほめる教育」を推進しているとでもいうのなら、何らかの関連があると言えるかも知れない。親がほめて育てたという事実があれば関連があると言えるかもしれない。だがそんな事実はない。わからない。この文脈では、「ほめる教育」のせいで件の女子中学生が増長していたとは言えないし、「ほめる教育」がこんな女子中生を生んだということも言えないのである。

 平易に書かれるのはよいが、もう少し実証的な書き方であってほしいと思う。一読後、得られる内容が単なる世間知レベルであるのが物足りない。

 

「無償の愛」とはどんな愛?


 「ほめる教育」についての問題点を述べたあと、著者は「真の愛情さえあればあとはあまり問題ではない」と述べる。「真の愛情」の条件としてあげられているのは(1)無償の愛であること(2)やさしさを厳しさを兼ね備えた愛情であること(3)子どもや若者をひとりの人間として尊重する愛情であることの3点。このうち、「無償の愛」について著者はいう。


 「無償の愛」とは、無条件の愛、見返りを求めない愛です。どんなことがあっても、大事な存在として受け止める心です。かりに子どもが期待にそぐわない方向に進んだり、あるいはこちらを嫌ったり憎んだりしたとしても見捨てたりしない、揺るぎない愛です。

 一番好きなのはおばあちゃんで自分たちではないといわれて、わが子にたたくけるの暴力を加えたという父親と母親のことを第6章で見ましたが、無償の愛のかけらも持ち合わせていない。

 ここまで極端でなくても、条件つきの愛情しかもっていないのではないかと思われる親や教師を見かけます・・・・。(130ページ)


 ああ、この著者も「愛を叫ぶ」。

 愛知万博も「愛は地球を救う」と言う某放送局も、みんな愛を叫ぶ。

 僕は本当に「無償の愛」を持っているのだろうか。本当に「無償の愛」を子どもにふりむけることが可能なのだろうか。自省的な僕は考える。そりゃそうありたいよ。無償の愛を持って教育に邁進できれば素晴らしい。だが僕が給料をもらって高校教師をやっていること自体、もう失格だ。


 愛を言いつのる人々はどうしてこんなに多いのだろう。僕は途方に暮れてしまう。

 愛とは何か。「ほめる教育」というテクニック論に対峙させる概念としては、僕にはあまりに重すぎる。何しろあらゆる人が学問が宗教が長い時間をかけて考え続けてきた事項だ。また、教育にかかわらず「無償の愛」が満ちていれば、この世の中、何でもうまくいくだろう。だが、世の中そんなに都合よくはない。

 もしかして、主観的に「おいらは無償の愛に満ちている」と思っていればいいということだろうか。それなら物事は簡単なのだが。