「創」2005年7月号/浅野健一「問題だらけのJR脱線事故報道」




 日本外国特派員協会を辞した後、JR福知山線列車脱線事故にともなう報道被害について「この機会に読んで勉強してごらん」と生徒に薦めたのは表題の一冊である。


私人相手の行き過ぎた報道取材


 浅野健一氏の記事は、JR福知山線事故のいきすぎた報道取材を取り上げている。犠牲者が出た同志社大学では「(同志社大学の)八田英二学長、黒木保博社会学部長らが4月26日学内で記者会見した。京都大学記者会(京都大学内)との間で、一般学生に個別の取材をしないという約束があったというが、全く守られなかった」「(ある記者が)あるメディア学科の1年生の携帯に突然電話をかけて、Aさんの友人を知らないかと聞いてきた。1年生が強引な取材に戸惑っていると「何か情報をくれないと、先輩の(準キー局への)内定を取り消すぞ」と脅したという」これらはもちろん氷山の一角である。

 「日本では首相や天皇など公人の取材では「自主規制」が簡単に決まるのだが、一般市民相手の取材になると、「取材報道の自由」があると取材して、個別取材の権利を譲らない。逆でなければならない(28ページ)」


 JR西日本の記者会見で、読売新聞の記者が、捜査官のような乱暴な言葉でJR西日本の役員を指弾する場面はテレビでも何度も放映された。本記事では次のように触れられている。

 「JR西関係者のレクレーション、懇親会などへの参加が連日非難されているが、「事故の本質から目をそらすための報道でないかとすら考える。JR西の労務体質を問題にしなければならないのに、関心を完全にそらす役割を果たしている。

 今回の事故は、中曽根内閣とメディアが共謀してすすめた国鉄解体が主要な原因である。国鉄にあった原則的な労働組合を解体するのが民営化の目的だった。

 NHKの犯罪が相次いで告発されていたとき、NHK職員はゴルフをしなかったか。新聞社の販売店従業員の犯罪で、当該新聞社は飲み会を延期しただろうか。枝葉末節の報道は何も生み出さない(29ページ)」


市民の間に根強くあるマスコミへの不信感


 こうしたことが積もり積もって、とうとう、というか、ついにというか、遺族の意向を確認したうえで、警察は犠牲者のうち何人かの氏名を匿名にした。ただし本記事によると、警察は個人情報保護法を盾に、マスコミに対して冷淡な態度をとったのではないという。県警は記者クラブからの要望を受けて、実名発表を承知しない被害者に対して「社会的要請」「報道の必然性」を理由にマスコミが実名を求めていることを伝えて再確認をし、事実上実名発表の説得をしているのだ。

 

 それでも一部の遺族は実名報道を望まなかった。その原因は、メディアに対する不信感にほかならない。先述のバングラデシュのハク記者がいうように、本来マスコミによる被害者に対する取材は、被害者救済や保障・支援の上から必要なものであるはずである。それが行き過ぎた取材によってマスコミに対する不信感が増幅され、マスコミの自己批判も不十分だとしたら、日本のマスコミは本来的な機能を失っていると言わざるを得ない。


マスコミに自浄作用はあるのだろうか


 今回の事故報道を検証する各社の動きについても、本記事で触れられている。以下引用。




 朝日新聞毎日新聞が相次いでJR脱線事故報道を検証する記事を載せた。両紙とも本質に迫れない。大事件、大事故のときだからこそ、立ち止まって取材報道のあり方を検証すべきなのに、自己防衛の言い訳がほとんどだ。「実名報道が原則」「遺族取材は不可欠」の連呼だ。取材報道される側への人間としてのやさしさが欠如しているとしか思えない。

 5月18日付の朝日新聞は「JR脱線 報道・配慮 両立なお課題」という見出し記事をメディア欄に載せた。ヘリ取材について「朝日新聞社は原則として低騒音型のヘリを使った。朝日を含め、ヘリだけに頼らず、高い位置からの撮影に高所作業車を併用する社が相次いだ」と書いている。低騒音型のヘリでも多くの社が飛ばすと相当な騒音になるだろう。

 毎日新聞は5月17日、《JR福知山線脱線:犠牲者「実名」か「匿名」か 遺族感情、配慮し模索》という見出しで、25頁の全面を使って特集した。

 《遺族から「匿名報道」を求められるケースも目立ち、「実名報道」の原則の下で、記者たちは遺族の思いと報道の使命との間で悩み続けた》

 毎日新聞の特別紙面で6人を匿名にしたことについてこう書いている。

 《読者の「知る権利」に応え、事実を正確に記録するため、実名報道を原則としている。負傷者を含め安否情報を関係者に早く知らせるという重要な使命を果たすためにも、実名報道は欠かせない。匿名化が進むと報道の具体性を欠くことになり、事実の検証が困難になる恐れがある》

 また、「ジャーナリスト」の大谷昭宏氏は《官の段階で情報を遮断してしまう匿名発表という最近の傾向は問題だ。匿名要請があることを明記して公表し、メディアが匿名にすべき特段の事情があるかどうかを調べ、自ら判断すべきだ》とコメントしている。

 匿名、顕名を「自ら判断する」基準を、報道界全体で創り、市民に示すことが重要なのだ。警察が発表すれば、ほぼ自動的に実名OKと考えている社会部をどうするかを大谷氏と毎日に考えてもらいたい。「匿名にする特段の事情があるか」ではなく、「顕名にするバブリックインタレストがあるか」を記者とデスクは検討しなければならない・・・・(30ページ)。




 昨年11月、奈良市内で7歳の女児が誘拐され殺害された事件で、4月18日、女児の両親は奈良県警記者クラブの依頼で、次のようにコメントを寄せた。

 「事件当初のカメラマンのフラッシュやヘリコプターの旋回音、新聞記事や投函のあった手紙の内容、取材時の空き缶やタバコのポイ捨てのマナーの悪さなど、私たちはマスコミに対する不信感をぬぐい去ることはできません」「私たちの心境をご理解頂き、取材活動を控えていただければと思っております」

 ・・・・これまで、様々な犯罪被害者の遺族によるマスメディア批判を取材してきたが、これほどきつい調子のメディア批判を知らない。(31ページ)


 果たしてマスコミには自浄作用があるのだろうか。「創」は長年一貫してこうした「行き過ぎた報道」について積極的な検証をおこなってきた。しかし、こうした地道な努力がマスコミのありように影響を与えないのだとしたら空しい。マスコミの信頼が地に落ちて久しく、今回のような報道被害は今までに何度も繰り返されている。


 「ボウリングをしていたかどうかは凶悪犯罪とは関係ない」と言ったのは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」のマイケル・ムーア。反対にJR西日本の職員が「ボウリングをしていたことと今回の事件には大きな関係がある」ことを声高に糾弾したのは我が国の報道モラルを逸脱した記者だった。

 この差はとても大きい。