修学旅行で東京へ




 21日から24日まで、勤務校の修学旅行を引率して東京へ。勤務校で旅行先が東京になったのは今年度から。これは、総合学習と修学旅行をリンクさせようという試みである。

 今日は横浜で「自由行動」。明日は東京で「自由研修」の予定。ちなみに横浜は「自由行動で」東京は「自由研修」なのは、東京では総合学習の調べ学習を兼ねているからである。

 いずれにせよ(諏訪哲二的に言えば)消費社会的に育った子どもたちを消費都市へ解き放つわけで、これはこれでとても大胆な試みだろう(!)。


 それにしても今どきの修学旅行は、とても贅沢で豪華。ホテルもかなりいいシティホテルだし、食事もコースで用意されていたりする。

 そして、高校生たちも消費志向が強い。たとえば「おこづかいはいくら」とか言っておかないと、高校生は10万とか平気で持ってこようとする。ヴィトンとか買うつもりなのだろうか。

 そして一部の生徒や保護者は、友達が10万持ってきたら「私も」そして「ウチの娘にも」と考える。これぞまさに日本人的心性。そういえば6/17の「内田樹の研究室」には、こんな文章があった。以下引用。


 「日本人の記号操作のきわだった特徴とは、ひとことでいうと「米粒に千字書く」ような「微細な差異の感知能力」にある。非日本人にはまず感知できないようなわずかなグラデーションの違いのうちにくっきりとした記号的分節を発見できる能力。これが日本人の記号操作を特徴づけており、日本における流行商品の消費動向全体を規定する条件なのである。

 「内田樹の研究室2005年6月17日「モードの構造」http://blog.tatsuru.com/archives/001048.php


 高校は同年代・同学力・同地域の子どもが集まる「同質化圧力」の強い場所ゆえに、生徒や教師にとっては、「微細な差異」こそが重要となる。女子のスカート丈へのこだわりなどは、その典型的な例であろう。

 そして修学旅行もまた、「微細な差異」が発現する場所にほかならない。個人的には小遣いなどいくらでもいいと思うのだが、「学校がおこづかいの基準を示してほしい」という保護者からの要望があるところをみると、どうもそれではよろしくないようだ。渦中にいる人たちにとっては、「差異」をひとまず同質化することで安心し、さらに「微細な差異」を作り出し自らのアイデンティティを確認することが切実な問題なのである。


 同質化圧力を意識する多くの日本人は、「社会の本質的な事柄」について「主体的」に決定することを苦手とする。どこかで「諸事万事、いっそ上から誰かに決めてもらった方が」と考えているのかもしれない。だから勇ましい言動の政治家や、官僚の跳梁跋扈を許すのだろう。


 ここらに我々が主体的に動けないメカニズムがあるような気がする。