小出裕章氏講演「原子力の専門家が原子力に反対するわけ」2011.3.20(日)於アクティブやない 第2回

 (第1回よりのつづき)
 これはさきほど見ていただいた図です。広島の原爆が撒き散らした死の灰にくらべれば、100万キロワットの原子炉は、ゆうに1000倍以上の放射能を、1年ごとに作るということを、私はこの図を使ってみなさんに聞いていただきました。チェルノブイリ原子力発電所というのは、1984年のはじめから動き始めました。事故を起こしたのは1986年の4月の26日です。つまり、2年間とちょっと、動いていたわけです。大変順調に、原子力発電所は絶対事故なんか起こしませんと言われながら、順調に2年間動きました。2年間動いたからそろそろ定期検査に入ろうということで、停止をしようという操作をしていました。どんどんどんどん原子炉の出力を落としていって、もうホントに止まるという寸前になって、さっきのように爆発しました。原子炉の中に含まれていた放射能は、この赤い四角の2年分です。この四角の倍のものが、原子炉の中にある状態で爆発したわけです。

 爆発してさっきのようなボロボロの姿になったわけですが、一体どれくらいの死の灰がでてきたのかというと、このくらい。広島の原爆が撒き散らした放射能に比べると、800発分です。とてつもない放射能が、ある日突然環境に出てきてしまうという事故だったわけです。


 これは、チェルノブイリ原子力発電所の場所を示す地図です。3年ほどたってソ連の政府が公表したものです。下の方にある、この黒いところが黒海です。ドニエプル川という大河がずっとこう流れこんでいる。チェルノブイリ原子力発電所というのは、キエフという街の北の方、この位置にあります。


 皆さん、ご存じと思うけれども、ソ連という国は、正式の国名を、ソヴィエト社会主義共和国連邦という。つまり社会主義を信奉する、いくつもの共和国が集まって連邦国家をつくるというのがソ連という国でした。一番大きな共和国は、ロシア共和国。首都がモスクワです。現在のロシア、ロシアから西に向かっていきますと、国境線が南北に走っている。国境線を越えると白ロシア共和国という共和国があります。首都はミンスクという。歴史正しい、古い街。そこからまた西へむかっていきますと、国境線がやはり南北に走っていて、もうすぐにポーランドそしてヨーロッパが広がっているという、そういう場所にあります。でロシア共和国と白ロシア共和国の南側には、国境線が東西に走っている。その南側がウクライナ共和国という、さっき聞いていただいた、非常に豊かな大地があります。そのウクライナ共和国の一番北の端に、チェルノブイリ原子力発電所があって、国境を越えるとすぐに白ロシア共和国につながっている。今はベラルーシと呼ばれているところですけれども、こんな位置にありました。


 そしてここで、ある日突如として、原子炉が爆発して、放射能が外に出てきた。出てくるとどうなるのか。もうあとは風に乗って流れるだけです。風がどっちから吹いているか、それだけがずべてを決します。事故があった当時は、はじめ、東から風が吹いていました。死の灰は西へ流れます。この先ヨーロッパだと私言いましたけれど、ヨーロッパをずーっと流れていきました。そのうち風向きが変わって、南風が吹いてきました。死の灰が北へ流れました。そのうち西風が吹いてきて、死の灰が東に流れます。この先に日本があるんですけれど、ご記憶の方もあると思うんですけれど、日本にもたくさんの死の灰が飛んできました。

今私はここに色をつけてあるわけですが、白いところには汚染がないのかといいますと、そんなことはありません。この先の日本だって、放射能が飛んできたわけですから、もちろんこうした白いところも汚染されているわけです。当時地球被曝という言葉ができましたけれども、もうすべてが汚染されてしまいました。チェルノブイリの事故によって。では、何でここだけ色を塗ったか。言うと、少なくともこの色を塗ったところというのは、日本の法律に従うと、放射線の管理区域という特別な地域に指定しないといけません。私は、京都大学原子炉実験所というところで、原子炉や放射能を扱って仕事をする、そのために給料をもらっているという、非常に特殊な人間です。法律でいうと、放射能業務従事者と呼ばれるレッテルを張られている人間です。そういう人間だけが入ることが許されるのが、放射線管理区域。


 みなさんが放射線管理区域に入るということはまずないと思います。唯一接する可能性があるのは、病院です。病院のX線撮影室とか、CTの撮影室とか、そういうところに行くと、入り口のところに、関係者以外立ち入りを禁ずると書いてある。妊娠する可能性のある女性は、必ず医者に言えと書いてある。そういう場所が放射線の管理区域。


 この色を塗ったところは、ずべてそういう場所。つまり、人が住んではいけないという、そういう場所が、この広さ。いったいどれくらい広いかというと、これくらい。私今3つだけ円を書きましたが、ひとつが100キロです。つまり3つ書いたら300キロ。私先ほど、事故が起きた直後に、30キロ以内の周辺住民を避難させたと言いました。3日分の手荷物を持って避難させたと。これは、この真っ赤なところ。原子力発電所の周辺です。

 ところが、事故が起きて3カ月ほどたったときに、こういうところに猛烈な汚染地帯があるということが分かります。赤く塗ったところ。これは何でこんなことになったかというと、放射能が流れてきたときに、ここで雨が降った。皆さんは井伏鱒二という小説家をご存じだと思います。黒い雨という小説、有名な小説を書いた人です。広島で原爆が炸裂して、キノコ雲が立ち上がって、そのキノコ雲から雨が降った。黒い雨が。それは広島の白い土壁に降ったときに、土壁に黒く筋をつけた。それは、放射能で汚れた雨だった。それによって、人々がまた被曝をしていった。


 ということをテーマにした小説ですが、これもそうです。黒い雨で、猛烈な汚染地帯がこんなところに生じてしまった。それがわかって、ソ連はまたこういう汚染地帯から人々をまた避難させるということをやりました。20数万人の人たちを、やはり避難させていった。当初13万5000人をここで避難させまして、全部合わせると、約40万人の人々をこの汚染地帯から避難させました。


 ところがそんなことをやってる間に、ソ連という政府自身が、その重さに耐え切れずに崩壊してしまった。そうなると、本当は人が住んではいけないという、放射線管理区域にしなければならないという区域の人たちを逃がすことができない。そういう区域は何と700キロのかなたまで広がっていた。もう助け出すこともできないまま、こういう黄色い区域にいる人々は、いまだにこういう場所で生活しているのです。赤ん坊を生んで、子供を育てて、毎日ご飯を食べて。ということをいまだにこういう場所でやってるという、25年たっても。状態になっている。


 これは追い出された村々の写真です。広河隆一さんという、私は大変すぐれた写真家だと思いますが、その広河さんが、チェルノブイリを訪ねていって、「消えた458の村」という写真集を出してくれました。たぶんもっとあるんだろうと思いますが、広河さんが訪ね歩いたのが458です。こういうところは、ソ連の政府によって、強制避難をさせられて、村自身がなくなってしまった。そういう村の記録です。家がもう朽ち果てているのにまかせているわけですがね。


 こんなふうに。これはもうブルドーザーで、あえてもうつぶさなければいけない。ものすごい汚染をしているわけですから、つぶして、埋めて、放射能が他へ飛び散らないようにしないといけないということで、そんな作業をしている。こんなふうに、何にも手をつけられないまま、朽ち果てている家がチェルノブイリ原子力発電所の回りにたくさんちらばっている。これはアパートです。日本にも、こういう新興住宅街のアパートが、私は大阪に住んでいますが、こんなところもたくさんありますが、そんなところもみんな無人になって放棄されている、というわけです。


 今またここに、白いキャンバスを見てもらっています。ここに四角を書きました。これは山口県の面積です、約6000平方キロメートルくらい。結構大きな県ですよね。そこにどうも150万人あまりの方が住んでいらっしゃるらしい。


 いったいではチェルノブイリ原子力発電所の事故で、強制避難をさせられた地域はどれくらいの広さかというと、まず猛烈な汚染地域が3000平方キロメートル、山口県の半分ですね。それから、その回りにまた、これもまた猛烈なんですけれども、こういうところが7000平方キロメートルあって、あわせて1万平方キロメートル。山口県の1.5倍、1.6倍というところが、無人になってしまう。分かりますか。皆さんの住んでる柳井市。たぶん3万何千人かお住まいだと思う、そういう街、街や村、上関町や祝町もそうでしょうけれど、そういうところが丸ごと、無人にしてもなおかつ足りない、いうくらいのところが、強制移住させられます。強制避難地域、約1万平方キロ。そこに約40万の人たちがいて、無人にさせられました、ということです。

 もうひとつ図を書きます。これは日本という国の広さを表したものです。37万平方キロメートルという広さがあります。一番大きいのは本州ですね。ここは24万平方キロメートルあります。では先程から聞いていただいた、放射線の管理区域にしなければいけない、約700キロ先まで広がっていると言いましたが、それはいったいどれくらいの面積かと言うと、こういう面積です。15万平方キロメートル。そこを放射線管理区域に指定しなければいけない。


 そこに、いまだに565万人の人達が生活を続けています。私は到底許せないと思う。こういうことは。私だって放射線管理区域なんて入りたくもありません。仕事上どうしても仕方がないから入ります。入っても仕事が終ればとっとと逃げてくるというところが放射線管理区域です。そういう場所に、いまだに565万人の人が、それも私のような人間ではなくて、赤ん坊も子供もいるという。そんなことは私は到底信じることができないほどひどいことだ。何とかこの人達だって、汚染地域から逃がさないといけないと私は思うのですが、ただそれを思ったときに、私は躊躇する。


 これは、先ほど見ていただいた、避難のバスに向かっている人たちの写真です。3日分の手荷物を持ってバスに乗れと言われたわけですが、でも何か、とてつもないことが起きているということは分かっているわけですね。3日分の手荷物を後ろの女性は持っていて、コートも持っていますけれども、ふたりとも泣きながらバスに向かっているわけです。何かおかしい、気がついている。


 まず女性の持っている、これは何でしょう。私は20年間くらいこの写真を見てきましたけれども、いまだに何だかわかりません。なべかやかんだろうと思います。でも、あるとき、東京の集会にいってたときに、ある人が私に教えてくれました。教えてくれたことがありました。それは、この女性は猫を抱いていると言うんです。わかりますか。ここに猫の足がある。で、この写真集から私が勝手にこんなスライドに作って持ってきたんですけれど、自分の研究室へ戻って、写真集を開いてみたら、確かにあのこのへんに猫の眼が映っていました。このスライドではよくみえませんが。つまり、この女性は、3日分の手荷物を持っていけと言われた。ひょっとすると何か大変なことになっているかも知れないと思って、自分がずーっと飼っていた猫を捨てることができずに、猫を連れてバスに乗りに向かっている。そのほか何にも持ってない。そうするとこれは猫に餌をやるための鍋なのかなと、私は思うようになりました。


 今、福島で避難をさせられている皆さんも、避難をしろと言われて、どうしても自分が必要なものを持って、きっと避難所へいったんだと思います。避難生活がどんどん長引いて、ついに避難所で亡くなるといる人がついに出てきているというわけなんですけれども、大変ななかで、やはり自分にとってどうしても大切なものは持っていきたいと思ったと思います。皆さんにしたって、原子力発電所で事故にあって、避難しろと言われたら、どうしても持っていきたいと思うものはあるだろう。でもそれを持ってバスに乗ったが最期、彼女たちは家に帰れなくなった。


 福島の原発で、今避難をしている人たちが、本当に自分たちの家に帰ることができなくなるのかどうか、私は予断を許さないと今は思っています。何とか今、原子炉が、破局的に崩壊するのを押えているわけですけれども、本当に押え切れるかどうかということは、よくわかりません。何とか押えたいと思うけれども、押えられないかも知れない。そうなると、今避難をしている人たちは、二度と自分の家に、自分のふるさとに戻れなくなることになる。生活が崩壊してしまう。自分の家がそこにあって、そこで子供を生んで子供を育てて仕事をするという、その生活が根こそぎ壊れてしまうということなんですよ避難をするということは。避難所へ行って仮設住宅をやがて与えられるかも知れない。どっか別の町に行って、別の町に行くことになるかも知れない。でもそうなったら、ずっと生きてきた歴史が、すべて崩れてしまう。


 チェルノブイリの事故の場合には40万人の人たちがすでにそうされました。でも私はあと565万人をそういう目にあわせろと言ってきた。放射能の汚染地域、放射線の管理区域なんてところに住まわせることは到底許せないから、そういう人たちを追い出して避難民にしろと私は言ってる。とても難しい。どうしていいか分からない。途方に暮れるようなことになってしまう。もし事故が起きればそうだということを、チェルノブイリは教えてくれたわけですし、今日本の福島で、そういう事態が進行しているわけです。


 これもわかっていただけると思いますが、世界の地図ですね。ここに日本が、ここにソ連という国がある。チェルノブイリはどこにあったのかというと、ここにありました。ウクライナ共和国と、ベラルーシの境に。私は日本の大阪の南のはじっこ、京都大学なんですけれども、京都の町中に原子炉を作り出すわけにはいかないということで、私の職場である京都大学原子炉実験所は、大阪の南のはじっこに立地されています。このへんなんですけど、これは距離でいうと、約8100キロになります。まあ地球の裏側と言ってもいいような、距離が離れているわけです。


 ですから私は、チェルノブイリの事故が起きたと聞いたときに、ああ、とうとう起きてしまったと、何とかこんな事故が起きる前に原子力発電をやめさせたかったんだけれども、ついに起きてしまったということは、私には理解できました。そのため、テレビの取材とか何かを、たびたび受けて、そのたびに解説しました。大変な事態に現地はなってるはずだ、ということを私は話しました。でも、日本はここにあるんだ。いくらなんでもこんなところの日本まで放射能は飛んでこないだろうと私は言ったんです、はじめ。でもそれでは私の仕事はつとまらないので、私は京都大学原子炉実験所の敷地の仲で、毎日私が呼吸している空気の中に、どういう放射能があるかということを測定を始めました。その結果がこれです。



 左のゼロというところが事故の起きた日です。4月の26日です。10日後、20日後、30日後といって、最後は80日後となっています。青い丸印がずっと並んでいますが、これが、私の吸っていた空気の中に含まれていた、セシウム137という、ま特別な放射能のうちのひとつの放射能ですけれども、それがどれだけ含まれていたかということを測定した結果をずっと書いてある。


 そしてこの縦軸というのはですねえ、ちょっと変な書き方で申しわけないんですけれど、これが10のゼロと書いてあるところ、これが1立方センチメートルあたり1ベクレルという、そういうふうな値です。一段下がるとここは10分の1になっている。一段さがるとまたその10分の1ですから、一番上の100分の1になる。千分の1万分の1十万分の一と、いうぐらいに減ってくるという、そういうくらいにちょっと変わった目盛りの取り方です。そして、私は事故後3日目から測定を始めました。4月の29日からです。当初は、私の予想通り、地球の裏側の日本なんかには放射能はこない、ということで、全然検出できませんでした。


 ところが、事故後1週間たって、5月の3日になって、ついに私が吸いこんでいる空気の中に、チェルノブイリから飛んできた放射能が姿を表した。愕然としました私は。一度事故を起こしてしまったらどうにもならないと。地球の裏側のようなところまで放射能で汚染されるんだ。ということをみせつけられたわけです。それから私は毎日測定を続けました。どんどんどんどん減っていってくれました、日がたつにつれて。ずーっと減ってきて10分の1くらいになって、ずーっと減っていって、100分の1くらいに減っていってくれました。


 ところがそれから何と上昇を始めたんです。事故が起こって30日目にまたピークになりました。どうしてだと思います? 日本に飛んできたこの放射能が、太平洋を越えて、アメリカ大陸に届きました。アメリカ大陸を横断して、大西洋を横断して、ヨーロッパに届いて、ヨーロッパを横断して、またチェルノブイリを通り越して、また日本まで戻ってきたんですね。地球を一周して、また放射能が日本へ。


 それからはだんだんだんだん減っていってくれて、事故後70日〜80日になった頃を最後にして、私の力でも放射能を検出することができないレベルまで、おさまってくれた。このへんから見ていくと、10分の1、100分の1、1000分の1、万分の1くらいまで減って、まあ何とか平常なレベルまで戻ったということです。


 でも今、福島で起きているということは、たとえば東京にも放射能が届いているわけで、私はその東京に届いた放射能が、どのくらいかといいうことを数日前に測ってきました。東京に届いたその空気の中にあったセシウム137の量というのは、100というレベル、よろしいですか、ここは0.01、ここが0.1、1、10、100という、そういうレベルで東京までが実は事故に汚染されていたのです。日本政府は決してそういうことを、そういう数値を報告しません。すでに、東京200キロ300キロ離れたところでは、そういうところまでが、放射能で汚染をされる。福島県内などというものは、大変な汚染を受けながら、いるわけです。(以下つづく)