高校入試で考えたこと


 高校入試があった。細かい内容は守秘義務の範疇に属するので書かないが、毎年のことながら、日常と違う厳正さと物々しさであった。


 失敗があってはならないということで、業務マニュアルは結構細かい。これは近年の傾向だ。年を追って詳しくなる。だが瑣末な形式主義と完璧主義は人を縛る。「失敗をしてはいけない」「失敗はお前の責任だ」という言外の呪縛が余計な緊張を呼ぶ。マニュアルに書かれているかどうか、瑣末なことが教師は気になるものである。すると、判断力などパフォーマンスが低下する。現場で判断すればいいことも、不安だからと管理側の判断を仰ぐ。それが記録に残って次の年のマニュアルに追加される。ますますマニュアルは細かくなって人を縛る。これでは悪循環だ。


 マニュアルは必要だし、便利だ。だがマニュアルだけではダメだ。マニュアルに頼ると人は自ら考えることを放棄する。
 マニュアルは人を支配する。バラモン教の時代から今日の官僚制の時代まで、瑣末で細かい作法の体系を使って、上位の者と関わる特別な権限を持つ者が人を支配してきた。逆に、支配されている限り、被支配者のパフォーマンスは、支配者のパフォーマンスを上回ることはない。これは当たり前のことである。抑圧して相手のパフォーマンスを貶めるから支配が効くのである。


 できるだけ型通りに実施することが、公平性を実現する最も有効な方策であるという考えなのだろう。だが、いくら細心の注意を払っても失敗はある。想定外のアクシデントが起こったとき、現場からとっさに動く力を奪ってしまうのなら、入試監督は必要ないのではないか。人がそこにいるのは、とっさのときに対応するためではないのか。人形を立てて、ヴィデオカメラを置いておけば良いワケではないのだから。