西村和洋「高校演劇におけるフィクションを考える−三島由紀夫『葵上』の上演を通して」その1

                                    
1.高校演劇の何が問題なのか……等身大の演劇に欠けているもの


 語弊があるかもしれませんが、どうにも高校演劇に関わる人々の中に、高校生の日常で起こる出来事から物語を綴ったような等身大の創作脚本を上演することが、その王道であるという錯覚があるように思います。この背景には、作り手に高校生と顧問しかいない状況の中で、有効な俳優のトレーニング方法を見つけられず、何をリアルと捉えて良いかわからない感覚があるのではないかと私は思っています。


 リアルとは何か、と問いかけられた場合、多少の言葉の差はあっても、高校演劇では「生きた高校生が舞台に存在すること」と捉えているように思います。ここで「生きた高校生」という言葉がクセモノになってきます。生きた高校生とは、生き生きとした等身大の高校生が物語の登場人物として舞台に存在するということでしょうか。それとも高校生が物語のある役となり、生きた俳優として舞台に存在するということでしょうか。今のところ前者で捉えられているケースが圧倒的に多いように私は思います。


 大人しか登場しない既成の戯曲は高校生の演技では説得力を欠くと考えられますし、また大人ばかりが登場する戯曲に取り組むことは良いけれど、形だけをなぞっただけのひどく不格好な作品になってしまう。むしろ、高校生なのだから、高校生の感性に合った脚本、それも演じる必要のない当て書きされたような脚本が、最も効率良くリアルな演劇をつくることができるに違いないという直感が働くためだと思います。私はこうした一連の考え方について、高校生のつくる演劇にこれほど単純明快なリアリティを与えるものはないと思います。


 しかし、演じるとは何をなすことなのか、演劇の醍醐味は何なのか、ということを今一度考えてみますと、演じることを求めない演劇のつくり方ばかりが横行する現状を私はたいへん寂しく思うのです。いやいや、台本を憶えて、段取りを憶えて、今まさにそこで生まれたようなみずみずしい演技を目指しているのだから、どれも演じることをきちんと求めた結果のものだ、と言うかもしれません。嘘のない、素晴らしい演技だと。そして、最も素直でリアルな演技だというかもしれません。残念ながらそこにはどれもフィクショナルな身体が存在していない。演技者の生理感覚に従っただけのある種テレビドラマ的なナチュラルさ、あるいはバラエティ番組的なギャグセンスがあるばかりです。特に台詞は単なる言い方ばかりに注目が行き、台詞の言い方がよりそれらしくナチュラルでありさえすれば「リアルで上手い」などと評価されます。高校演劇ではフィクションを生きる方法が一般的に知られていないため、役を自分に近づける、いやそれよりむしろ等身大の自分が役として舞台に登場する。テレビドラマに例えるなら、ある流行のタレントさんがいろんな作品の役として登場するけれども、作品が変わってもそのタレントさんの演技そのものに全く変化がないのと同じことです。


 フィクションという言葉はどこか誤解されていて、架空の、作り事の、嘘の、とマイナスのイメージで捉えられがちですが、フィクションを生きる俳優の存在が高校演劇にはほとんどありません。フィクションを生きるとは、舞台に日常の身体感覚を持ち込まないことが前提です。果たしてフィクションを生きる、あるいはフィクショナルな身体の造形をつくるということは、高校演劇には不可能なことなのでしょうか。私は、高校生がフィクションを生きることができたならば、高校演劇の持つ可能性をさらに推し進めることができると考えています。


   つづきはこちら 「高校演劇におけるフィクションを考える――三島由紀夫『葵上』の上演を通して]その2 http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20120426