ダークナイト ライジング


ダークナイト ライジング Blu-ray & DVDセット(初回限定生産)

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 公開から1ケ月、やっと見る。クリストファー・ノーラン監督の「新生バットマン」シリーズ3作目。前作から8年後、ゴッサム・シティ抹殺を目論むベインと、バットマンの戦いを描く。クリスチャン・ベールマイケル・ケインゲイリー・オールドマンアン・ハサウェイトム・ハーディマリオン・コティヤール、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、モーガン・フリーマン。この他にもチョイ役で見知った俳優がたくさん出ている。錚々たるキャスト、目を見張るスペクタクルな場面も多く、少なくとも体裁は堂々たる映画に仕上がっている。


 寓話的かつ神話的なストーリー


 スケールは大きい。何しろゴッサム・シティ1200万人が核爆発の危機にさらされるのである。バットマンは核爆発を阻止できるのかというのがサスペンスのキモ。数十日にわたるベインの恐怖政治も描かれ、なかなか骨太である。

 
 だが、不思議なことに、人々がパニックになる姿、右往左往する姿は、ほとんど描かれない。核爆発が迫っているのに、皆自宅にでも引きこもっているのか、いわゆる「普通の市民」は、ほとんどスクリーンにすら映らない。描かれているのは、バットマンとベインという「神々」の周辺の人々のみ(たとえば孤児院の人々など)である。もちろんこの映画はヒーロー物だから、ヒーローの動きに焦点を合わせざるをえないのかも知れないが、アメリカンフットボールの競技場でベインはゴッサム・シティの市民たちに大見得を切ったのだから、対する市民たちの「リアクション」を描くのが一般的だろう(劇中、略奪や金持ち狩りは行われていたが、あれが「普通の」市民たちの行動とは、とても思えないのである)。


 また、ベインがゴッサム・シティを破壊する理由がピンとこない。ベインの演説も過去のエピソードも抽象的だし、リスクの大きい「支配」を数十日も続けたりする(外から軍隊が巻き返しに来るぞ!)。行動が大胆すぎて、オイラの卑小な人間理解ではついていけないのである。


 いや観念的には理解できるのである。悪を象徴するベインと、善を象徴するバットマンキリスト教的世界観に基づく善悪が表裏一体になっている関係。そしてふたりはともにラーズ・アル・グールの弟子。濃厚な関係だからこそ、単に邪魔なヤツというだけでなく、ベインはバットマンを倒すことに興味があり、バットマンもいかにベインを退けるかということに興味がある。要するに、ドラマの核は、バットマンとベインによる愛憎あいなかばした私闘であるとオイラには見えた。


 そのせいか、一度はバットマンに勝利したベインは、さっさとバットマンの命を奪うことをせず、哲学的なセリフを言いながら、結果的にバットマンに復活するチャンスを与えたりする。それがバットマンが「奈落」と呼ばれる監獄に閉じ込められる場面だ。そこでバットマンは「修行」する。神話的物語において「修行」は欠かせない。「スター・ウォーズ」でも、ルーク・スカイウォーカーは、オビワンやヨーダ(老賢者)のもとで修行した。バットマンことブルース・ウェインは、命綱をつけずに岩盤をよじ登ることで、死や恐怖を克服し、脱出に成功し、さらなる力を得る。このくだりは彼に神性を与える。ラスト、ゴッサム・シティで大立ち回りをするバットマンは、まるで救世主のようだ。


 ところが、作り手のメッセージは、普通の人間が、恐れを克服し、立ち上がる(ライジズ)姿を描くというところにある。ヒーローはどこにでもいる。誰でもバットマンになれる。そんなメッセージが登場人物の口から語られるし、本作のバットマンことブルース・ウェインは、ことさら人間らしく描かれている。とくに序盤は「激闘に傷つき足を引きずるブルース・ウェイン」という場面が強調されているのである。人間くさいリアルな等身大のブルース・ウェインが強調されればされるほど、命綱をつけずに岩盤を上っただけで、死を克服しベインと対峙できる者になれるという筋書きが、観念的かつ荒唐無稽でオカルティックに思えてしまう。


 また監獄の岩盤をよじのぼる場面は、地下水道に閉じ込められた数千人のゴッサム・シティの警官たちが、地表にのぼってくる場面と相似形をなしている。アメリカン・ヒーローが警察や消防など、市民の安全を守るために日夜努力している人々の暗喩であるとするなら、バットマンの苦悩は、まさにそれらの立場の人々の苦悩と重なる。現にバットマンの理解者は警官が多い。地下から脱出した数千人の警官と暴徒とのバトルは、絵的にはとてもスペクタクルで印象的だった。


 だが「誰でもバットマンになれる」とするならば、立ち上がるのは何も警官だけではないはず。一般の人々も一緒に立ち上がるべきだ。


 また、他のネットの書きこみを見ると、オキュパイ・ウォールストリートと関係があるのではないか、という意見がいくつかあった。証券取引所の襲撃という場面があるからそんな感じが強くするのだろう。ちなみにゴッサム・シティ証券取引所では人手による「立ち会い」をやっていた。十数年前から完全にコンピュータ化され、取引所に人があふれかえるような光景は今ではない。コミックに基になる場面があるのだと思うが、もうこれでこの場面は、現代のリアリティから逸脱してしまい、現代の金融混乱をことさらにとりあげて批判しているようにはオイラには思えなかった。むしろクラシカルで根源的な人間のありように、ノーランの関心が向かっているように思える。


 いずれにせよ、ノーランがウンウンうなりながら脚本を書き上げて、渾身の思いで作っているのが感じられ、そこについては、とても好感が持てた。見る側に考えることを要求する作品で、反芻しがいがある作品である。