カジムヌガタイ−風が語る沖縄戦−


カジムヌガタイ-風が語る沖縄戦 (モーニング KC)

カジムヌガタイ-風が語る沖縄戦 (モーニング KC)


 旧作である。よくコメントをいただくmcintoshさんに薦められて読んだ。2001〜03年に週刊モーニングに連載されたコミック。沖縄戦前後を舞台にした短編6編が収められている。戦後、村の女性を暴行する米兵3人を、村人と旧日本軍将校が報復する表題作、壕を明け渡さなかったという理由で、戦争中に日本軍人に家族を殺された少女が、アメリカ軍の救護キャンプで生き残ってしまった当の日本軍人に再会する「フシムスガタイ−星は語る−」、マラリアの蔓延する西表島への村落移住を決行しようとする特務機関を名乗る男と対決する巡査を描いた「イシムヌガタイ−石は語る−」等、生々しい沖縄の当時の現実が描かれている。ただしフィクションである。


 「決戦 少年護郷隊」と題された1編を除き、「〜ヌガタイ(〜は語る)」と題された5編の主人公は、いずれもオキナンチュである。沖縄の立場から、戦争の苛酷で理不尽な極限状況におかれた人々の様子を、素朴な画で訥々と描いている。過剰な演出効果などほとんどないが、沖縄戦の現実に即した重い内容は、読む者を物語世界へ静かにひきこみ、深く考えさせる。


 本書での憎むべき相手は、米兵だったり日本軍だったりする。権力を背負った人間が、戦争という極限状況の中で沖縄の人たちに何をしてきたか、フィクションでありながら、そのことがくっきりと分かる。戦争という状況が、暴力や支配という衝動を容易に生み出す装置となっていることが分かる。だからこその「あの戦争を、決して忘れない」というオキナンチュの意思が、まっすぐに読む者に伝わってくる。


 また本作は日本軍や米兵の非道な暴力を描くだけでなく、極限下で抗い正義をなそうという人々を描いている。「物語は絶望で終結したくない」という筆者の願いが全編に貫かれており、作者の表現者としての姿勢に頼もしさを感じた。


 最後の一編、「イシムヌガタイ−石は語る−」は、とくに心に残る。嘉例国民学校の教師に赴任してきた轟先生は、実は特務機関の離島残置工作員だった。轟先生は沖縄戦の最中、突然身を明かして、嘉例島の人々に、西表島疎開することを命じる。西表島は当時マラリアが蔓延していたので、島民は反対するが、聞く耳をもたず、轟先生は独裁者のように振る舞う。島民がマラリアで次々に死んでいくなか、残してきた家畜が軍に徴発される。最初から島民の安全のための疎開ではなく、島民から家畜を奪い徴発するための疎開だったのだ。


 八重山での軍事行動が終結したあと、轟先生は、何事もなかったかのように西表島からの船に乗ろうとする。「あんたが強制的に疎開させたおかげで、住民はマラリアに罹り死者も出た。そのことに責任を感じないのか」との非難に対し、轟先生は「我々は命令を受け実行するのみで責任はない」と言う。なおも引き揚げようとする轟先生に、主人公の村の巡査が対決する。「轟先生、あなたは私たちにとって国家そのものだった・・・私はあなたを倒さんと収まりがつかん。あなたに斬られたらやはり国家は強いと知り死ぬだけだ」そして、巡査は釵術という「沖縄古武術で」轟と対峙するのである。


 そこには、はっきりと「国家」に対峙するオキナンチュ「個人」という視点が描かれている。そして驚くべきことに、フィクションでありながら、この作品は事実に基づいている。「国家」と国家をかさに着た一部の人々が、個人を不当に抑圧している構図は、今もいたるところにある。教員のオイラは、轟先生の姿に、行政からの命令に忠実な「校長」と「学校」の関係を見た。権力に近いところにいる者こそ、人としての「良心」に忠実であるべきだろう。