タカギ カツヤ「またあしたっ」


 1週間以上のごぶさたです。しばらく更新が滞っていたのは、11月におこなわれる高校演劇の県大会で上演する台本に手を入れていたためです。時間が切迫していたため、台本の改稿を優先させてもらいました。ブログに何度も足を運んでくださった方々、すみませんでした。


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 既報のとおり、上演するのは、タカギ カツヤ作「またあしたっ」。作者のタカギ君は、2年前に卒業した演劇部の先輩。彼が高校3年のときに書いた作品を、二年連続で上演する。


 なぜ昨年と同じ作品を上演するかというと、作品の持っているポテンシャルの高さに魅了された、としか言うしかない。生き生きしたリズムとオリジナリティのあるセリフ、マンガ的にカリカチュアされ、作者の実感や観察に基づいた存在感ある人物造型、現代の社会や教育の問題点が批評的に浮かびあがる構成など、高校生の書いた台本としては「奇跡的な」達成だとオイラは思う。一年で終わらせてしまうのは、もったいない。台本に敬意を表し、じっくりと取り組んで、観た人の記憶に残る作品にする使命がある、オイラはそう思っている。


 すでに今年の8月、昨年の県大会の上演を元に、夏公演・文化祭公演として、本作を別キャストで上演した。11月は、スタッフ・キャストも変更し、台本にも手を加えての上演となる。タカギ君のテキストを尊重するのは昨年度と同じ。セリフやシチュエーションを生かしながら、イメージを喚起する言葉を挿入したり、出てくる事物の関連が明確になるような精細な処理を施した。変更箇所は百数十カ所に及んだ。


 今朝、演劇部員にほぼラストまでの構成を見渡せる台本を渡した。大きくストーリーや設定が変わっているわけではないので、一読しただけでは、あまり変わっていない印象があるかも知れない。だが、今回のテキストレジによって、この作品がどういう作品なのか、よりはっきりと観客の前に示すことができる、オイラはそう確信した。


 そう思わされたのは演劇部員の今朝の本読みからだった。最初から最後まで、一通りの本読みを聞きながら、ふとある箇所で、作品が立ち上がっていくときに感じる、ぞくっとするようなスリリングな感覚を覚えたのだった。高校生は、無意識にセリフを操る。こちらの意図を必要以上に斟酌しないがゆえに、考えもしないセリフをポンと出してくる。今回は、ある役者の、ひとつのセリフの意外な言い回しで、オイラは「わかった!」と思ったのだった。


 毎回のことであるが、ドラマを考えていて、オイラの意図どおりに登場人物が動き、作品が想定した地平に着地することなど、まずない。無理やりに登場人物を動かそうとすると、すぐにリアリティがそこなわれてしまう。それどころか、目の前の物語がどんな物語なのか、創り手であるオイラは、てんでわかっていないのが常である。芝居のことについて、24時間考えていると、ふとしたことから、目の前の芝居がどんな芝居なのか見えてくるときがある。それがその瞬間である。


 一時は大きく構成を変えようと試みた時期もあった。しかし、タカギ君のテキストを信用して、解釈を深めていく方向で修正した方が、よい結果を生む。そのことを、ここ数日、オイラは強く実感したのだった。この台本をたたき台に、作者のタカギ君と相談のうえ、上演台本を決定していくつもりである。


 上演は既報のとおり、11月23日(金)、勤労感謝の日の14:00から。徳島県郷土文化会館あわぎんホール大ホールにて。入場無料です。ぜひよろしくお願いします。