いっそアクロバティックな


 舞台で人が死んでも、あれは役者が死んだフリしているに過ぎない。幕が降りたら、死体もスタスタと起き上がって楽屋に急ぐ。また、舞台の上の人たちは、本当は役名の人物ではない。別人である。舞台はウソで満ちている。


 何を当たり前のことを。

 
 世間ではウソは指弾される。食品偽装問題というのがあった。中国産のウナギやワカメを国産と偽って売れば、企業は世間から非難を浴びる。しかし、舞台のウソは指弾されない。ウソをついて当たり前。かえってウソが称賛されたりする。


 本物そっくりである必要はない。何もない舞台空間を「ここは月面だ」というだけで、そこは月面だ。お金もかからない。これが映画だとそうは行くまい。CGや特殊撮影を駆使しお金をかけて月面を再現しても、ちょっとそれっぽくなかっただけで、子供からも「チャチな特撮」などと酷評されたりする。


 演劇は、観客の想像力をテコに、舞台上にいろいろなものを現出させる装置である。しかも効率的に現出させることができる。本当らしくなくてもいい。ならば、アクロバティックな、誰も考えつかないようなウソをつこう。それを、それらしい言葉でいうと、「表現」というのです。


 もちろん、簡単にアクロバティックなウソをつけるほど甘くはない。堅い身体をときほぐし、常識の鎖を解いて、やっと少しは動けるようになる。すべてはリラックスから。すべての鍵はリラックスにある。