平野啓一郎「私とは何か−「個人」から「分人」へ」講談社現代新書


私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)


 タイトル通り「アイデンティティ」についての本である。


 「ありのままの自分」を生きることが大切と人は言う。まあ当たり前のことだ。大人がことさら言いたてる類のことではない。だが本当に「ありのままの自分」を生きることが可能なのだろうか。そう問いなおしてみると、話は複雑になる。


 実際我々は、場の空気を読み、仮面をかぶり行動しているのである。職場や学校の顔と家庭の顔は違う。個々の友達と話すときも違う。たとえば、Aという人に対してはアイドルの話をするが、Bという人はジャズが好きだからジャズの話をする、というのもそうかもしれない。もっと言えば、本音と建前を使い分けたり、相手や状況によって態度を使いわけたりもする。そのことに一抹のやましさを感じることもある。それは、私たちに「本当の自分」というのが確固としてあり、それに従って「ありのままの自分」を生きることが理想的な生き方だと思っているからかも知れない。


 現代は非常に複雑である。いろいろな局面に生きなければならない。様々な自分を「演じる」ことが求められているがゆえに、現代ならではのきしみや弊害が、いろいろなところに見える。「いじめ」や「引きこもり」なども目に見える「きしみ」のひとつかもしれない。だからこそ「個人」という概念のとらえ直しがとても大切なのだと思う。


 人間関係について悩んでいる人に、「考え方を少し変えてみては」と提案するのが本書である。本書の言いたいことはこうだ。「たったひとつの「本当の自分」など存在しない。対人関係に見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。人間にはいくつもの顔がある。そのことをまず肯定しよう。それは後ろめたいことではない。人間は、複数の「分人(dividual)」の集合体であり、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である」


 「分人」という言葉は、「個人(individual)」という言葉に対応する。筆者が創り出した言葉である。個人が「もうこれ以上分けられない」という意味であるならば、分人は「分けられる」という意味に他ならない。「分人」という考え方で自分や人間関係を見直せば、社会と自己の整合性がよりリアルに把握でき、具体的にどう考え、どう生きたらいいのかがイメージしやすくなる。人間関係に苦しんでいる人にとっては、生きるヒントが詰まった本である。


 本書の末尾に「「個人」の歴史」という補記がつけ加えられている。これが根源的・本質的で面白かった。人間が「個人」だという発想は、西欧から生まれた、それは「一神教に由来する」からだと平野は言う。一なる神と向かい合うのは、一なる人間でなければならない。全知全能の神を前にして、人間はウソ偽りのない「本当の自分」でなければならないというわけだ。


 「個人」の概念が見いだされるのは、近代に入ってから。「個人主義」という思想が誕生するのは、19世紀なかばから。日本には明治になって入ってきた、「明治維新後、士農工商という身分制度が崩壊した日本では、まさしくバラバラになった一人一人が、独立した主体として、政治に参加し、経済活動に従事しなければならなかった。このためには、「個人」の確立が急務だった。そして、日本で、自我というものの長い苦悩がはじまったのは、まさしくこの時だった」


 「individual」という言葉は、明治期の日本人にとって、非常にわかりにくい、まったく新しい概念だったという。そして今も十分消化できずにいて、さまざまな問題を生んでいるのかも知れない。だからこそ、概念そのものをリセットすることから始めることに意味があるのかも知れない。哲学的に意味のある仕事だとオイラは思った。