平田オリザ「わかりあえないことから/コミュニケーション能力とは何か」講談社現代新書



 「コミュニケーション能力」という言葉は、最近よく使われるが、違和感を覚えることも実は多い。たとえば「コミュニケーション教育」にはダブルバインドがあると、本書の作者である平田オリザは言う。建前としては、異文化理解の能力を養うと言いながら、もう一方では、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった能力が求められている。そして求める側は、そのことに気がついていない。なるほどなあと思う。建前社会である日本では、いろいろなダブルバインドがあって、無意識のうちに教師や生徒を縛っている。


 熱心な教師がはりきってもうまくいかない例として、こんな例も挙げられている。小中学校と組み替えなしの学年1クラスの小規模校で、スピーチの時間だからといって教師が生徒にスピーチをさせたとしても、うまくいくものではない。なぜなら、お互いのことを、もういやというほど知っているから。いまさら話すこともとくにない。「表現とは、他者を必要とする。だが、教室には他者はいない(24ページ)」のである。こんな状況が子どもの意欲を奪っていく。


 平田オリザは、実際におこなったコミュニケーション教育の例として、小中学校でおこなったロールプレイの例をあげている。平田は三省堂の国語教科書の編集委員をやっていて、そこに掲載されている3分ほどのテキストをもとに、各班ごとに肉付けをして、劇として発表する。3時間で完結するもので、生き生きと子どもが活動している様子が行間から伝わってくる。


 その中の、平田のこんな言葉が印象的だ。
 「私もこの10年、全国を回ってモデル授業をしながら、「教えないでください」と言い続けてきた。この授業の眼目は、子どもたちだけで喋っているときと、先生が入ってきたときと、先生はいなくなったのだけれど転校生というちょっとした他者がいるときで、子どもたちの話し言葉のモードが少しずつ代わるという点にある。しかも、その変わり方も子どもたちそれぞれで、先生が入ってくると大きく言葉遣いが変わる子もいれば、あまり変わらない子もいる。そのような話し言葉の多様性に気がついてもらうこと、興味を持ってもらうことが、この授業の一番大切な点なのだ。しかし、従来型の国語の授業のように、「ほら先生が入ってきたんだから、そんな言葉遣いじゃダメでしょう」というある種の言語規範を、あらかじめ一方的にすり込んでしまっては、子どもたちの学びの機会はなくなってしまう。


 「私が公教育の世界に入って一番驚いたのも、実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。もうすぐ子どもたちが、すばらしいアイデアにたどり着こうとする。その直前で、教師が結論を出してしまう。おそらくその方が、教師としては教えた気になれるし、体面も保てるからだろう。だいたいその教え方というのも全国共通で、「ヒント出そうか?」と言うのだが、その「ヒント」はたいていの場合、その教師のやりたいことなのだ(47ページ)


 オイラも含め、多くの教師は、この「待つ」ということができない。すぐに答えを示してしまう。高校だともっとテキメンだ。表現の多様性を学んでいるはずが、教師から子どもに答えを伝授するという強固で画一的な「構え」から抜けられない。そのことが子どもに自由な発想をもたらさない要因のひとつになっているのだろうとオイラは思う。


 平田オリザの教科書の中の文章「対話を考える」には、次のような言葉が書かれている。「対話では、必ずしも、相手が自分の意見に賛成してくれなくてもいいのです。むしろ、自分の意見や自分の価値観を表明し、同時に相手の価値観にもふれることによって、お互いの価値観に違いや共通点を発見し、そこからお互いの中に新しい価値観が生まれてくることが大事なのです。自分の意見が相手とふれ合うことでどんどん変わっていく。その変わっていく事に喜びさえも見いだせると言うのが、対話における優れた態度です(平成14年度版『現代の国語』2年)」


 教師もまた、その「構え」が変わっていくような瞬間になれば、教室での授業の時間は、有意義なものになるに違いない。


 これらコミュニケーション教育についての実践例だけではなく、対話についての本質的な話題なども豊富で、社会人が実生活に生かせるような内容も多い。話者と聞き手のコンテクストのずれという点で、面白いエピソードが挙げられていたので、紹介することにする。

 私の同僚の医療コミュニケーションの専門家から聞いた話。
 ホスピスに末期癌の患者さんが入院してきた。五〇代の働き盛りの男性で余命半年と宣告を受けている。奥さんが二四時間、つきっきりで看護をしている。
 さて、この患者さんに、ある解毒剤を投与するのだけれど、これがなかなか効かない。奥さんが看護師さんに「この薬、効かないようですが?」と質問をする。ホスピスに集められるような優秀な看護師さんだから、患者さんからの問いかけには懇切丁寧に説明をする。
 「これは、これこれこういう薬だけれど、こちらの他の薬の副作用で、まだ効果が上がりません。もう少し頑張りましょう」
 奥さんはその場では納得するのだが、翌日も、また同じ質問をする。看護師さんは、また親切に答える。それが毎日、一週間近く繰り返されたそうだ。やがて、いくら優秀な看護師さんでも嫌気がさしてくる。ナースステーションでも、「あの人はクレーマーなんじゃないか」と問題になってくる。
 そんなある日、ベテランの医師が回診に訪れたとき、やはりその奥さんが、「どうして、この薬を使わなきゃならないんですか?」とくってかかった。ところが、その医師はひと言も説明はせずに、
 「奥さん、辛いねぇ
 と言ったのだそうだ。
 奥さんは、その場では泣き崩れたが、翌日から二度とその質問はしなくなった。
 要するに、その奥さんの聞きたかったことは、薬の効用などではなかったということだろう。


 いい話だ。こういうことを理解してアドバイスできるようになりたいなあと、オイラは切に思うのである。