「ライフ−オブ−パイ/トラと漂流した227日」



 (ネタバレ炸裂です)


 動物園を経営する一家に生まれたインド人青年が、カナダ移住の際に、船が沈没し、生き残ったトラとともに太平洋を漂流する。監督は「グリーン・ディスティニー」「ブロークバック・マウンテン」などのアン・リー。作品賞・監督賞をはじめ、アカデミー賞11部門でノミネート。


 CG多用の3D映像は見事だが、映像美だけの作品ではない。物語の構造こそ特筆すべき映画である。(ここからネタバレ)227日の漂流を経て、ラスト、主人公は救助される。メキシコの病院にいるところへ、調査機関の日本人が話を聞きにやってくる。主人公は彼らに、トラといっしょに漂流した話をする。だが、信用されない。調査機関の人々は言う。「もっと真実っぽい物語を」。そこで彼は別の話を語る。それは、動物を人間に置きかえた、人間同士が争う話。より現実的だが、陰惨な、極限状況における「人肉食の物語」である。


 ラストに「人肉食の物語」がつけ加えられたおかげで、本作で描かれた「動物との漂流の物語」が、象徴性やメタファーに満ちた「寓話」であり、主人公の内面を反映した「物語」であることに観客は気づく。冷静に考えればトラと227日漂流するなどという話が現実であるわけがない。だが漂流の様子がリアルに描かれているので、見ているときは、メタレベルで読み解くことを忘れてしまう。ユルめのサバイバル・ストーリーだと油断していたら、実はポストモダン文学の系譜に連なる作品だった、という知的なドンデン返しが鮮烈である。


 「トラと漂流が始まるまでの前半部分が長い」という感想も多い。もちろん確信犯的にそう作っているわけであるから、なぜ長いのか、作り手の意図を読み解いていくのがクリティカルな姿勢というものだろう。ちなみに原作では、前半部分はさらに長い。上下二巻のうち、上巻はほとんど主人公の青少年期のエピソード等に費やされる。この長い前半がベースになって、「動物と漂流する」という奇想天外な物語を、読者はリアルな物語として受け入れることができる。主人公が泳ぎがうまいこと、動物園育ちで、動物の扱いや生態に慣れていること、捕食−被食関係にある動物が共存する例などが語られ、これらが漂流部分の伏線になる。映画も概ねそれに沿っているが、最新の映画らしく、あまり悠長なのはよろしくないという判断からか、原作と比べると伏線は省略されており、少々性急な感じがする。


 重層的な意味合いで言えば、漂流は、少年の成長における「父子の葛藤」のメタファーだと読むこともできる。主人公の父親は、無宗教で科学や人間理性を信頼する合理的な人物。根っからの現実主義者で、トラの恐ろしさを息子に刻みつけるため、トラが動物を襲う血みどろの場面を強制的に少年に見せようとする(この前半部のエピソードは、本作の「トラ=主人公」が、他の「動物=漂流者」を食い殺すことと対応している)。


 その少年を庇護するのは母親である。母親は信仰心の篤いヒンズー教徒。少年は父的な価値観と母的な価値観の狭間で揺れる。「動物との漂流の物語」というフィクションを青年があえて作り上げたのは、父的な物語をあえて否定したいという青年の無意識の心のあらわれだったのかも知れない。そういえば、少年がキリスト教ヒンズー教イスラム教の3つの宗教を信仰しようとするのは、無宗教の父に対する「反抗」とも読める。漂流は、青年が大人になるための、通過儀礼とも言えるのである。


 以上、解釈の一例を挙げてみたが、長い前半部分の主人公の少年期の描写が、解釈を深いものにするには間違いない。・・・・未熟なオイラの説明では、未見の方には何のことかさっぱり分からないと思うが、巧妙で大胆な「構造」のたくらみには驚かされることうけあいなので、ぜひ確認していたきたいと思う。さまざまな解釈を許容するまさに前代未聞の映画である。



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