プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング



     (結末に言及しています)


 「何の変哲もない女子高校生が、実は王女だった」という、女の子のお姫様願望のツボを、きちんとついた佳作「プリティ・プリンセス」の続編。

 今回は、21歳になった主人公ミーア(アン・ハサウェイ)が、王位継承のために「ジェノヴィア王国」へ行き、そこで巻き起こす事件をコミカルに綴る。ゲイリー・マーシャル監督。


前作と比べ荒唐無稽なテイスト


 アメリカの大人しい高校生の日常をじっくり描いた第一作目と比べると、かなりテンポアップしている。第一作目から数年がたち、主人公は大学を卒業し21歳になっているが、主人公ミアの行動は、前作にまして、そそっかしく無分別だ。

 ダンスシーンでミアの相手をするジェノヴィア王国の人々は、ドタバタ喜劇らしく誇張されている。ミアのふたりの侍女は常識ではありえないような、シュールなダンスを繰り返す。音楽は、悪役が登場するとサスペンスフルに、ロマンティックな場面ではロマンティックに奏でられ、非常に説明的だ。ご都合主義的な展開も多い。10分くらい観ると、前作と比べ荒唐無稽なテイストで作られていることが分かる。

 反面、展開はスピード感があり、内容的にはマンガティックでツッコミところも満載なのだが、結構飽きさせず見せる。続編でもあり、設定や背景を丁寧に説明する必要は薄く、すぐに本題に入れるという利点をうまく生かしている。そういった意味では、こういった続編のあり方もありかも知れないと思う。


ホロッとさせる場面もある


 ただ、クラリスジュリー・アンドリュース)とジョー(ヘクター・エリゾント)の「老いらくの恋」などは、もう少しうまく生かしてほしいと思う。二組の恋愛を並行して描き、それぞれのカップルが互いに影響されあい成長していくという構図をきちんと描いた方が、この映画の展開はまとまりやすくなるように思う。ドタバタ喜劇だから仕方がないというエクスキューズはあるにせよ、ドラマ展開が唐突で御都合主義的、リアリティ無視のユルさなので、感動させたりホッとさせたりする肝心の部分がシマラない。

 また、一般的なアメリカ人観客に感情移入してもらおうという配慮なのか、主人公のミアは、ジェノヴィアの風習よりもアメリカ娘として振る舞う場面が多い。また、配慮のない行動で、物語の後半まで「いつになったらしっかりするの」などとクラリスから叱咤されたりするのを観ていると、あまりの馬鹿娘ぶりに観ている側がイライラさせられる。後半、バルコニーから抜け出したミアが、ニコラスと密会し、マスコミにスクープされる場面などは、その典型である(前作にもよく似た事件があった)。「どこにでもあるようなアメリカ娘が王女になったとしたら」という少女の願望に即した物語であるとは言え、主人公ミアの鈍感ぶりと無分別な行動は目にあまる。

 とはいえ、ホロっとさせられる場面もいくつかある。ジュリー・アンドリュースが子どもたちの前で歌う場面は、彼女がかつてのミュージカル・スターだった時代を知る者にとっては、グッと来るシーンだ。また、クラリスが常にミアの意志を尊重し、個人として行動し、女王になることを押し付けない態度も立派だと思うし、それをラストまで貫いたドラマ展開には好感が持てる。


恋人の胸のなかに飛びこんで終わり、ではない。


 そして、ラスト。

 前作のラストシーンは、ミアが恋人と結ばれるシーンだった。ヒロインが男性の腕の中へ−これがこの手のドラマの黄金パターンだろう。ところが今回、いささか趣が変わっている。

 この映画のラストは、ミアの女王としての戴冠式なのである。戴冠式では、ジェノヴィア国家が流れ、クイーンジェノヴィアの誕生が高らかに宣言される。僕は、いわゆる「国家と結婚」した「エリザベス」女王をふと思い出した。独身での戴冠。国家との結婚。そう考えると、映画の軽みとはかなり重いニュアンスが付与されることになり、お気楽に生き生きと活躍してきたヒロインの姿とのギャップに僕は違和感を覚えたのだった。


 しかし、エンドロールでは、ジェノヴィア初の女性国会議員や、子供センター設立を実現したミアの姿が映し出される。つまり、女王になることは、「働く女性」として活躍することと同義なのではないか(女王という職を軽く考えているような気もするが)。それとも「お姫サマ」も、現代では「働く女性」となり、社会参加することが求められている、ということだろうか。とにかく従来のハッピー・エンドのあり方とは、微妙に異なるラストであり、「女性の幸せとは何か」を考えるポイントであることは確かである。


プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング@映画生活