「祝の島」その2


 
 山口県上関町祝島の人々の姿を追ったドキュメンタリー。とても静謐な映画である。一見どこにでもある過疎の村。だが、そこは原発建設予定地。1982年、島の対岸4キロにある長島に、原子力発電所の建設計画が持ち上がって以来、島の人々の9割は、建設計画に反対してきた。漁業と農業によって生計をたてる人々の姿と、反対運動を粘り強く続けている様子が、淡々とフィルムに刻まれている。


 ミレーの「落穂拾い」のように存在感が匂いたつ


 映画のほとんどは、島で暮らす人々の日常の生活を丸ごと映した映像である。普通の映画なら退屈で冗長だと判断されるような、長い間や沈黙もカメラはとらえる。一本釣り漁師が魚を吊り上げたり、老人が農業を営む様子に、カメラはじっくりと付き合う。島の人々の多くは高齢者。その顔には、深い皺。そして方言。説明は極力廃されている。




 オイラは「ああ、これはミレーの「落ち穂拾い」のようだ」と思う。「落ち穂拾い」は、貧しい人々にあえて焦点をあてることで、そこに暮らす人々の日常を凝視する19世紀自然主義の代表的な絵画。「祝の島」でも、70年以上生きてきた人々の日常を詳細に描くことで、島に暮らす存在感が画面から匂いたつように伝わってくる、それがミレーの名画と重なって見えた。


 毎週月曜日にやっているデモは、もうすぐ30年目、1050回目だそうである(高橋源一郎氏の新しい記述によると1400回目)。デモ行進は、祝島の日常の中に溶けこんでいる。地域に根ざした反対運動がずっと続いていることがスゴイ。これは、島の村落共同体がきちんと機能しているからだ。これは、祝島が離島であり、社会の変化から取り残されてきたからだ。この映画の中で見られるような、日本の相互扶助の伝統は、多くの地域でとうの昔に壊れてしまった。


 小学校の入学式の場面が忘れられない。たった一人の新入生を祝うために、礼服を着た島の人々が、小学校の体育館に集まる。その数30人あまり(!)。保護者だけでなく、親戚や近所の人が、入学を祝いに学校へ駆けつけるのである。島の人々が、近所の子どもをわが子のように思っている。保護者の挨拶でほろりと涙を流すおばあちゃんを見て、オイラも思わず感動してしまった。




 自然の循環のなかで生きる人々


 島の人々は、先祖の人々とも交流する。カメラは、伊藤冨美子さん(81歳)が高台にあるお墓参りをする場面を映す。伊藤さんは「私が参らないと参り手がないからね」と言いながら、夫、親戚、友人などの墓に手を合わせる。参るところがたくさんあるので、おばちゃんのお墓参りは半日がかりになると言う。


 平萬次さん(77歳)は、祖父の亀次郎さんが人力で30年かけて作った棚田で、農業を営んでいる。祖父の亀次郎さんは歌が好きで、祖父の作った歌を、仕事の合間に石垣に刻む。自分の死んだ後は、その田を受け継ぐ者がいないことも承知の上だ。「次の代には何もなくなる。それが世の習いだといつも言っていたんです。私が一生懸命耕作したらあとはどうなろうと(それでいい)。おじいさんがそう言ったから悔いはないんです。たんぼも元の原野に還っていく」


 そして映画は祝島の季節の移り変わりを映す。それぞれの季節の情景を映しながら、春から夏へ、そして秋へ。そして次の年の春へ。田植え、草取り、収穫、そして苗床作り。そこには、私たち人間も、自然の循環の一部であるということを実感しながら、永劫の時間に身をゆだねてゆったりと生きている人々がいる。「今私は都会の人を見ていると、身の丈以上の生活をしているように思えるんですよね」という平さんの言葉が象徴的である。祝島の人たちの存在そのものが、ある意味現代社会に対する批評そのものなのだ。効率を追い求め、自然を壊し、収奪し、我々は今の文明を築いてきた。その象徴が「原子力発電所」である。



 祝島原発と対極にたつ


 人々の日常的な生活を映した場面が「静」とするなら、反対運動の場面は「動」である。中国電力が埋め立てを開始すると聞いて、島の人々が海上の抗議行動に出る。何十隻の漁船で船をつないで中国電力の船をブロックする。緊張する場面。それまでに、島の人々の生活をみてきた観客は、抗議する島の人々の肉声は、島に生きているがゆえの実感の声であることを、観客は理解する。そしてそれらは、我々が現代的な生活をするにあたって、どこかに置き忘れてきたものに他ならない。


 女漁師の民子さんは言う。「(海は)私らの命よ。ここで生活して、ここまで大きいしてもらったんじゃからね。海がなかったら生活できんじゃ祝島なんか。海と山があるから食べるものは自分でできるからね。子や孫のためにこんなきれいな海を守ってやらにゃ。私らもみんなが守ってくれたから、今のきれいな海があるんじゃけ。私らも守って後世に残してやりたいというのが一念」


 正本笑子さん(74歳)の証言。「原発問題は、人間の心をずたずたにする問題と思う。前は祝島は皆いい人で、お互いが兄弟のようにしよったからね。それが今原発が来てからは、心がずたずたになってしもうた。それがとにかく残念」「祝島は離島で、働くいうたら海か山しかないでしょ。あれが地続きじゃったら車でちょっと行って働くいうことができる。離島がゆえに残念ながらそれができんでしょ。だから、なおさら海を汚すようなことは絶対されたらならん。ほんと宝の海じゃからね我々にとっては」


 本作が作られたのは、3.11以前。祝島の人の生き方の対極に、原子力発電所を対峙させ、現代社会の問題点を浮き彫りにしようとした作り手の目論見は、祝島のみなさんという「静かに闘う生活者」を被写体として得たことによって、実現可能になったとオイラは思う。