乱調夢想

 2020年4月、徳島県文学書道館が企画した「瀬戸内寂聴作品の感想文コンクール」で優秀に選ばれた一文に、少し手を入れて掲載します。

 

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  乱調夢想

 

 自分は高校教員。いまは母校の城東高で勤務している。城東高の前身は、寂聴の出身校である、徳島高等女学校だ。
 先日、校内の図書館で『美は乱調にあり』を借りて読んだ。学校の図書はバーコード管理されているが、裏表紙の見返しに、なぜか昔の貸出カードが残っていて、そこに、四十年前、国語を教えてもらった女性教師の名前を見つけた。
 先生はどんな思いでこの本を読んだのだろう、ひさしぶりにその先生のたたずまいを思い出した。あの頃の先生は30代。今や自分の方が、はるかに年上である。ところが、オイラはいい年になっても、煩悩に振り回されている。
 そういえば高校のころは、大人になると、人格が陶冶されて、自己を統御できるようになると思っていた。ところが今の自分は、いまだに高校時代の延長線上にいて、生徒の前では繕っていても、相変わらずのボンクラぶりだ。
 人は、その人なりの生き方でしか生きられない。
 そして、筋金入りのロマンティストである寂聴(執筆当時は晴美)は、彼らの側に立つ。生々しくも情熱的な生き方への、ストレートな共感を惜しまない。
 「美は乱調にあり」の登場人物たちは、欲望や執着が元になった悩みや葛藤を隠そうとしない。大正時代、雑誌「青鞜」で活躍した「新しい女」、伊藤野枝。自由に生きることが今よりもはるかに難しい時代に、野枝は、自由恋愛(不倫)を堂々と行い、女性解放の先頭に立ち、情熱的で自分を偽らない奔放な生き方を貫いた。ストレートで常識や世間にとらわれない。
 現代はそんな生き方を許さない。学校も今や、コンプライアンスだの服務規律だの、管理管理の世界である。自由が保障され、物質的には恵まれているにもかかわらず、自由に生きられないのはどういうわけか。
 いびつなのは、現代の社会の側ではないのか。
 本書の冒頭、「青春は恋と革命だ」という言葉がいい。楽観的で、とてもまぶしい。勇気を奮い立たせてくれる。高校生にもぜひ聞かせたい言葉だ。
 無理を承知で言うと、寂聴先生には、いま一度、母校の講演にぜひ来ていただきたい。年齢は関係ない。体育館の全校生徒を前に「青春は恋と革命だ!」とアジテートする姿を夢想する。若者よ立て、常識や世間にとらわれるな、である。  
 言葉には力がある。人を思いがけない場所に連れていく。社会を変える力にもなる。
 (てなことを、夢想するんですよね)と、アタマの中の高校の恩師に問いかけてみる、そんな機会をいただいた、エネルギッシュな一冊である。

 

 

そして活性化の時代へ

 

こちらは2000年以降の徳島県高校演劇の状況を綴ったもの。「徳島県高校演劇70年のあゆみ」は、本年度秋の県大会時に会場に並ぶ予定です。

 

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    そして「活性化の時代」へ
                      古田 彰信

 ゼロ年代の動向

 徳島県の高校演劇は、他県と異なる独自の進化を遂げた。浅香・紋田が拓いた伝統を受け継ぎ、創作脚本の割合が非常に高く、個性的な作品が継続して生み出されてきた。また社会に対する批判精神にあふれた作品が多く、それらの点において顧問の果たした役割は大きい。
 2000年、当時、県高文連会長、県高演協会長であり、城東高の校長だった浅香寿穂は、阿波農の田上二郎を城東高に迎えた。2004年開催の徳島全国大会にむけての配置である。人不足と多忙のなか、田上事務局長をリーダーとして、攻めの運営準備が行われたが、その過程で、徳島の高校演劇は活性化していく。
 田上がまず取り組んだのは仲間づくりだった。少子化の影響で他県の演劇部数が目に見えて減少するなか、徳島県大会の出場校は、1990年後半の12~13校から、2003年に17校まで増加した。2000年からは「文化の森演劇フェスティバル」、また「高校生戯曲コンクール」や、大会前の劇作研究会が毎年開かれ、上演や観劇、批評の機会も増えた。大会準備や運営、講習会などをきっかけにして生徒や顧問の交流が活発になった。顧問の劇作研究会は、毎年朝方まで議論が続いた。
 県大会審査員も、プロ演劇の第一線で活躍する著名な演劇関係者を呼ぶことが多くなった。四国ブロック全体も活気づいていた。「四国高校演劇祭」の開催(2000~)や、四国学院大学演劇コースの設置(2003)などをきっかけに、四県の交流が本格化した。2000~2003年の間に、川之江「ホット・チョコレート」(2000)、同「七人の部長」(2001)、丸亀「どよ雨びは晴れ」(2003)と、全国最小の四国ブロックは全国最優秀を三回獲得した。
 高校生や顧問は県境を越えてプロの上演や上位大会に積極的に足を運び、ノウハウや技術を吸収した。1990年代なかばからはじまった近畿総合文化祭の演劇部門への代表校派遣も引き続き行われた。こうした刺激も、徳島の高校演劇の活況につながった。
 その後、上演校数に増減の波こそあれ、田上の熱と方法論は、その後の事務局長(茅野克利、吉田道雄、吉田晃弘)に引き継がれ、高校演劇は、さらに盛況を呈していく。とくに近年の傾向として特筆すべきは、有力校以外でも顧問が本格的に創作に取り組むなど、演劇的にもテーマ的にも、問題意識の高い作品が並び、高い達成を成し遂げるようになった。とくに、2018年の第70回大会は、表現技術の底上げもさることながら、すべての作品に、現実と向き合い、高いレベルで芝居づくりに格闘した跡が見られたことに感心した。ややもすると、今やすべての演劇部が、野心的で、入れ込んで芝居作りに励んでいるのが徳島の現状である。

 2000年以降のおもな顧問の動向を記しておく。全体としては、多くの顧問が作品を重ね、経験にもとづくテクニックが蓄積され、作品的にも質があがり、さらなる円熟が見られるようになってきた。
 田上は、ゼロ年代の県高校演劇を牽引したのみならず、書き手としても多数の作品を残した。その活動は、1980年代後半からはじまり、1990年代の代表作としては鳴門工「MИP」(1991)、海南「神のいない三つの部屋」(1993)等、高校生に高い技術と精神を要求する、実に緻密な作品を発表し、2000年以降は高校生に寄り添いながら、多様な作品を残した。とくに2004年の徳島での全国大会では、阿波「子供の子供と子供たち」、城東「幽霊部員はここにいる」の二作品が代表として上演されるという前代未聞の快挙をなした。他にも阿波「よみがえる山形」(2001)、城東「マイナスイオン」(2002)、小松島「補習授業は暑くて長い」(2012)をはじめ、秀作を継続的に発表した。また今昔の演劇に精通し、劇作研究会でも多く発言し、県高校演劇の理論的な大黒柱として批評水準の向上にも貢献した。
 小規模校や支援学校に転勤しても、それぞれの場所で演劇部を興すという、演劇活性化の範を教員人生を通じて粘り強く示し続けてきた紋田正博は、今までの勤務校と同様、阿南養護ひわさ分校、その後2003年からは城西高に異動すると、生徒を集めて演劇部を立ち上げ、2007年の定年まで活発に活動し、前衛的な「紋田劇」を発表した。とくに阿南養護ひわさ分校「マジメにヤレ」(2001)、城西「あすべすと」(2005)は、卓越した身体性と祝祭性を生かした類例のない演劇表現が高く評価され全国大会にも出場した。
 富岡西「破稿 銀河鉄道の夜」(2004)で県最優秀となった古田彰信は、2006年から城北高へ転勤した。生徒創作を生かした城北「またあしたっ」(2011・2012・作者はタカギカツヤ)をはじめ、最近では城北「さらに、めっきり嘘めいて~Love&Peace~」(2015)、城東「暗渠」(2016)など、部の状況や社会状況を受けてさまざまな高校演劇の可能性を模索している。
 城南高で長く顧問を続けた善本洋之は、チャンバラや特撮ドラマ・格闘技等の要素を取り入れた娯楽的スタイルを貫き、大会での観客動員は常にトップであり続けた。どの作品も観客席を大いに沸かせたが、「餓武羅~血を吸う南蛮船~」(2010)では四国大会にも進出した。
 音楽への造詣を作品に取り入れ、饒舌な語り口とは裏腹に、現代社会が置き忘れてきた戦争などの逸話を一貫して掘り起こしてきた坂本政人は、最優秀・舞台美術・創作脚本の三冠を制した鳴門第一「kadenz!」(2006)をはじめ、「Out Take」(2008)、徳島市立「INTERLUDE!!」(2011)が県最優秀に選ばれたほか、他の作品も審査員から高く評価された。
 哲学的で現代アート的美学に彩られた、高校演劇の在来の文法には類例のない「高校演劇の極北」といった作風を貫き通してきた大窪俊之は、年々「演劇的上手さ」を増し、城ノ内「エバラ日記」(2007)で四国大会、「三歳からのアポトーシス」(2012)ではついに全国大会に出場した。高校演劇としては異質で先鋭的な表現に、全国大会上演後の長崎のホールは大きくどよめいた。
 生徒の持つ雰囲気を上手く生かした学園ドラマに定評のある斎藤綾子は、粘り強く転勤先の演劇部を勃興し、池田「破稿 銀河鉄道の夜」(2000)、同「My Friend No.nine」(2001)、富岡西「十七音」(2007)などを県最優秀に導いたほか、水産「Let's go 大浜海岸」(2005)などの高校生の勢いを感じさせる秀作を残した。

 2010年代以降の動向

 2010年代以降は、さらに若い顧問の台頭が目立った。海部「ジャムにいさん~メタめた坩堝ん と私」(2010)で県最優秀を得た吉田道雄は、世界を重層的にとらえ、誠実に思考し、現代の社会や学校でどう生きるべきかを問い直す作品を発表した。城の内「杏の日記~踊り手と読み手の両の手は言の羽」(2018)、同「ことりのがっこう」(2019・作者はリトル・バーズ(@受験いやすぎる))は、論理性・思弁性・文学性などのバランスもよく手練れた作品で、俳優も生き生きと映え、上位大会へ進んだとしても遜色ない仕上がりだったと思う。
 海部高で吉田道雄の後顧問となった生垣千尋は近年実力を蓄え、地域性豊かな海部高校の生徒の素の部分をうまく生かし、生活実感の伴ったセリフで綴った言語感覚豊かな作品を相次いで発表し、「プテラノドンは何思う」(2016)、「片道7キロ 40分」(2017)で2年連続四国大会へ進出した。
 阿波「ぷりうすなんかこわくない」(2010)以降、巧妙な作劇などで注目されていた吉田晃弘は、阿波「ハムレット・コミューン」(2014)、同「2016」(2015)で県最優秀を得て、それぞれ春の全国大会・夏の全国大会に出場した。いずれも、野心的なセット、喜劇スタイル等、見せる演劇でありながら、学校の「教育」の射程におさまらない社会的テーマや日本の現実の暗部が反映された問題作であった。城東高に異動してからの「スパゲッティフィケーション」(2018)、同「となりのトライさん!」(2019)では、さらに洗練を深めている。また後に県高演協主催になるアエルワ演劇祭(2015~)を主宰・発展させた。
 近年もっとも充実しているのは村端賢志である。富岡東羽ノ浦校で「避難」(2012)、「夜帰」(2013・原案川瀬太郎)と2年連続県大会最優秀を得ると、徳島市立高へ転勤後、「どうしても縦の蝶々結び」(2016、林彩香作,村端は構成)、「夕暮れよりもまだ向こう」(2017・下窪摩耶との共作)、「ユメちゃんはいつも不機嫌」(2018・中田夢花との共作)、そして生徒創作の「水深ゼロメートルから」(2019・中田夢花作)と4年連続県大会最優秀に選ばれた。高校生の陽の当たらない生活場面を舞台に、居場所がない人たちの葛藤を繰り返し描いている。巧妙に計算された舞台美術、心の動きを丁寧に拾う演技等、高い次元でバランスよく精緻に作り込まれて、完成度も高い。徳島市立高へ赴任してからは、高校生の芝居づくりを支援するというスタイルを確立し、いずれも成功をおさめている。とくに中田夢花は、「水深ゼロメートルから」では浅香寿穂賞を独力で得たほか、大人の中でも活躍できるほど在学中に大きく成長した。
 他、城東高・脇町高で顧問をつとめ、別役実的演劇を指向して独自の世界を構築した茅野克利は、城東「来る」(2011)で四国大会に進出し入賞した。また、紋田正博の方法論の後継者であり、2014年から2018年まで富岡西の演劇部を指導した岡本紳も、独自のスタイルを模索し「Typhoon!」(2016)、「Youth!」(2017)で浅香寿穂賞を受賞した。杜穂隆、前田由美子、澤光太郎の各氏も創作を始めており、今後の展開が期待される。
 以上、顧問にスポットを当てて21世紀の高校演劇を回顧したが、前述の中田夢花以外にも、県最優秀を受賞した城東「おくる」(2009・茅野克利との共作)の作者である志田真奈美、城北「またあしたっ」(2011・2012)の作者であるタカギカツヤ、浅香寿穂賞を受賞した城南「二十億光年とちょっとの孤独」(2018)の作者である山田陣之祐をはじめ、高校生も大きく育っていることも忘れてはならない。
                         (書き下ろし)

 

 

消えたクラス演劇、先鋭化した部活動「演劇」

 

  今年度刊行予定の「徳島県高校演劇70年のあゆみ」に、1970年代後半から1990年代までの、徳島県の高校演劇に関する文を書きました。

 昔のことを忘れないうちに。

 

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「拡大の時代」から「先鋭化の時代」へ

     ー1970年代後半から1990年ころの高校演劇ー


                        古田 彰信

 かつて演劇は、今よりも少しだけ、普通の人にも身近なものだった。二十一世紀の現在からすると考えられないことだが、たとえば古田が通っていた1970年代の城東高は、伝統的にクラス演劇が盛んな高校で、文化祭になると、クラス演劇が毎年「十数本」上演されて賑やかだった。演劇部に入っていなくても演劇はできたのだ。

 さま変わりしたのは1978年度。ちょうど共通一次試験が始まった年。英数コース設置で成績優秀者が囲い込まれ(1976~)、文化祭の開催時期が10月から9月下旬へ前倒しされ(1977~)、土日開催が平日開催に変更されたあと(1977)、ステージ発表が二日から一日に短縮されたのだった(1978~)。納得いかない高校生に対する当時の教師の説明は「最近、文化祭のとりくみが低調になる傾向にあるので、積極的な取り組みが、今後、期間の延長の同意を得られる前提である」という訳のわからないものだった(※1)。

 城東の伝統だった文化祭のクラス演劇は、1977年までの十数本から、1978年には4本、1979年には2本、1983年にはゼロにまで激減する。

 紋田正博が日和佐高「劇闘日本の夏」で全国最優秀を得たのは、1984年である。これは、一般の人々まで届く大ニュースだった。徳島新聞における高校演劇の扱いは、文化系部活動の中ではまだ別格だったし、教師らしからぬ紋田正博の佇まいに、高校演劇なら何か面白そうなことができるんじゃないかという予感を覚えたのは、古田だけではなかったと思う。

 徳島の高校演劇は、創作割合が異常に高いことで知られるが、県大会の創作脚本の割合がグンと上がり50%を継続的に超えはじめたのは、1984年からである。その後、50%を下回る年はない。紋田正博の全国大会最優秀、そして創作脚本50%超えが同じ年に起こったのは、偶然ではない。紋田正博という「強烈な刺激」は確かにあったのだ。

 黎明期に佐坂茂男や遠藤米太郎が灯し、1960年代に浅香寿穂が洗練させ、紋田正博が開花させた「創作文化」は、新しい世代にも受け継がれていく。紋田正博はもちろん、藤家昇、三久忠志、東端孝、下川清、四方山坂、若い世代としては田上二郎、真鍋(善本)洋之、古田彰信…。この時期の書き手は多種多様であった。

 一方、教育は画一的・管理的な色彩を強め、演劇は学校の表舞台から疎外されていく。「学校は好きだ。だが、学校は嫌いだ」紋田正博の作品に何度となく登場する台詞に代表されるように、社会や教育に対する不全感を見つめ、あがき、葛藤し、社会や教育を鋭く批判する作品が目につく。これは教育の中で演劇のおかれた状況の反映でもある。かくして、保守的・画一的な徳島の教育の中において、高校演劇だけが突出して先鋭的であるという状況ができあがり、現在に至っている。

 「先鋭化の時代」は、全国大会への出場回数が15年で4回と少なかった。1986年に全国大会へ出場した紋田正博の日和佐「トカナントカイッチャッテ」は、戦争のみならず、反戦反核のあり方の頑迷さも笑い飛ばしたラジカルな問題作だったが、全国大会では、ラジカルであっていいはずの観客席の高校生から「ふざけっぱなし」「不謹慎」との拒否反応が出た。また県で三回最優秀を得た古田彰信の板野「Mの悲劇」は、四国大会では二位・三位・二位と全国大会への道を蹴られ続けた。実在の人物(世間が忘れてしまいたい人物)の影の部分にメスを入れたことが、いわゆる「教育的」観点からすると、全国大会に出場するにはふさわしくないと判断されたのかも知れない。

 それらの「過剰」を「失敗」と評するのは、いつも狭い勝利至上主義の手口である。徳島は、教育が持て余すような部分さえラジカルに受け入れ、互いに影響しあい、それらを血肉にすることで、高校演劇の枠を広げるような、さらに尖った作品を数多く生み出し、作家主義を確立してきた。

 この時代、紋田や田上の歯に衣着せない批評によって若い世代は鍛えられた。そして演劇の何たるかを上の世代から受け継いだ。試行錯誤の精神は「活性化の時代」に継承され、各校・各顧問の更なるオリジナリテイの開花を呼び起こすことになるのである。(書き下ろし)
      (※1 城東高校誌「渭山」1978年 第8号)

「読書という体験、そして勉強」

 
勤務校の「Library News 2020年3月号(310号)」に寄せた一文。高校生向け。「読書で得られるものって、かけがえのないものだよ」という内容。いつも自分はリベラルアーツの側に立ちたいと思っています。
 
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   読書という体験、そして勉強
 
 
 「読書は体験である」
 ということを、和歌山大学の天野雅郎先生という方が書かれているのを読んで、うまいこと言うなあ、と思ったのでした。※1
 じっくり本の世界に入り込み、心の深いところで登場人物や著者、そして自分と向かい合えば、身体を通した経験にも劣らない感銘が得られます。一冊の本との出会いが、ときには人生を変えることがあったりする、それが読書の力です。
 「勉強」はどうでしょうか。勉強を「いい点を取る」「いい大学に入る」ための手段と見なす空気、昔から根強く感じます。学びは道具的なものじゃないのだけれど、社会の選別や序列化の圧力が強すぎて、皆が「テスト対策=勉強」という場所に急かされ追い込まれているように思えます。
 そのせいもあるのでしょうが、学びを「味わうもの」ととらえてない人が多いような気がします。「効率的にやりたい」「無駄なことはしたくない」っていう感じが何となく先に立って、ひとつの事をじっくりと立ち止まって深く考えるという習慣が失われがちにも見えます。こんなふうに矮小化された「勉強」なら、「豊かな体験」と言うには、ちょっと違うよなあと思うのですね。
 「読書」もまた、何かの目的があってなされることも多いのだけれど、心の深いところをいったんくぐらせるからか、思考が深くなり、感銘は忘れ難いものになることも多いのだと思います。
 深い思考をする習慣をつけると、世界が見えてきます。この世界は多面的で複雑です。教師の言葉や、教科書に書いてあること、エライ人の言うことだって正しいとは限らないのです。知れば知るほど、何が正しいか分からず、あなたは途方に暮れて立ちすくむこともあるかも知れない、そんなとき、一冊の本が、あなたのアタマを解きほぐしてくれる助けになるかもしれません。
 休校も長くなって、いよいよ春休みです。ぜひ図書館で本を借りて読み、世界と向かい合い、いろいろなことを深く考えてほしいと思います。
 
     ※1 天野雅郎「読書という体験 ――「教養」の来た道(11)」
          http://www.wakayama-u.ac.jp/kyoyonomori/message/-11.php

学力テストの朝

 学力テストの日の朝、教師っぽい説話をする。その採録。今年度は「今日は何の日」みたいな感じのことをよく話している。

 「~するな」という感じだと、抑圧的になる。教員も35年以上やってると、そういう感じにも飽き飽きしている。

 地理の授業では、恵方巻の廃棄の話。食品ロスの話もしました。

 

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 今日(2月4日)は立春です。立春二十四節気のひとつで、12月21日頃の冬至と、3月21日頃の春分の、ちょうど中間点にあたります。暦のうえでは、春のはじまりですね。

 昨日(2月3日)は節分でした。季節の分かれ目という意味ですね。

 季節の変わり目には邪気(邪鬼)が生じるそうです。だから、その節分には、豆を撒いて「鬼は外」と邪鬼をはらうのですね。

 今日はテストですが、カンニングなど、誰一人として「魔がさす」ことのないよう、願っています。終わり。

勇気を持ちなさい

 クラス通信、生徒に対して書いた文章です。

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 勇気を持ちなさい

 

 「学校」の元々の意味を、皆さんは知っていますか?
 ギリシャ語の「schore(スコレー)」という言葉に由来しているそうです。このスコレー、実はギリシャ語では「ヒマ」という意味なのですね。
 ヒマがあるからこそ、物事を深くつきつめて考えることができる。うらやましいことに、ヨーロッパの高校では、授業に空き時間があったり、夏休みの宿題がなかったりと、個人の時間的余裕が確保されているところが多いです。
 日本の学校には「ヒマ」がありません。やれ宿題だ受験だ行事だと、諸事に追い立てられている。上意下達、効率優先が当たり前になって、物事を根本的に考える習慣が失われて、知性が十分に働きにくい場になっています。
 私たちは、山積する矛盾や不合理に対し、忙しさを言い訳にして見て見ぬフリをすることがあります。利己的にふるまってしまったり「関係がない」「どうせ言っても無駄だから」「損だから」「大人になれ」といったあきらめに似た空気に流されることもあります。
 どうやら私たちは、忙しさにかまけて、根本的で重要なことを見失っているようです。それは、私たちの周りを私たちの手でよくしていこうという気概、つまり「勇気を持つこと(by内田樹)」ですね。
 哲学者である内田樹は「国語教育について」というエッセイでこう書いています。「文科省や教員が子供たちに語って聞かせているのは、いつでも「怯えろ」「怖がれ」ということです。学力がないと社会的に低く格付けされ、人に侮られ、たいへん不幸な人生を送ることになる。それがいやなら勉強しろ…というタイプの恫喝の構文でずっと学習を動機づけようとしてきました」(1)。
 知性のはたらきを高めることが目的のはずの学校が、知性のはたらきを封じ込めるように機能している、何となく感じていながら言語化しにくいそのことを、内田樹の文章は、とても鋭く指摘していて、読んではっとしました。
 「やめておけ」「できるわけがない」…私たちの耳元でささやかれるそんな声が、本当に正しいのか、私たちは根源から考えることから始めなければなりません。
 そして心の声にしたがって、あなたは、あなたが正しいと思うことをなす勇気を持ちましょう。それが、あなたが本当になりたい人になるための一歩となるのだと、私は信じています。(2020年2月3日)

 

 (1)「国語教育について」内田樹の研究室
   http://blog.tatsuru.com/2020/01/06_1024.html

 

いっぱいいっぱいのカタチ

 2008年5月に書いた拙文。城北高演劇部の牟岐公演を観て、この文章のことを思い出したので再録します。高校生のありようは、ひと昔前と変わってないですね。

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 いっぱいいっぱいのカタチ

 僕は、高校の演劇部の顧問をやるかたわら、大学生や社会人といっしょに演劇を作ってきた。そのうちのひとりと、「高校生の演劇とオトナの演劇の違い」について話をしたのだが、そこでの会話で、なぜか印象に残ったフレーズがあった。
 「高校生の演劇は、いつも、いっぱいいっぱいだよね」
 「いっぱいいっぱい」というのは、「いつも自分の能力ぎりぎりのところで芝居に取り組んでいる」という意味だ。日々の城北演劇部でも、目につくのは、不器用で、未熟で、段取りをこなしきれず、アップアップしているメンバーの姿だ。もちろん失敗も多い。オトナの演劇と比べると、技術的な面では、天と地ほどの開きがある。

 ただ、そうした、打算なしに瞬間瞬間を生きる高校生のひたむきさや正直さこそが、人の心を強く動かすこともまた確かなのだ。自戒の意味をこめていうと、大人になるにつれ、どこかに余裕が出たり、「これくらいでいいだろう」という気持ちが出やすくなる。オトナであっても、かつてはひたむきに生きてきた時間があったはずのに。

 5月25日、城北高校演劇部は、トミニシ演劇部で1997年4月に上演した芝居の再演を、ヨンデンプラザ徳島で行う。この芝居は、廃部寸前の演劇部を題材に、せっぱつまった高校生たちの「気分」と「気持ち」をたっぷり詰めこんだ作品である。城北高校演劇部では、テクニックや小手先の芸ではなく、台本が本来持っている「まっすぐさ」「ひたむきさ」を損なわないことに気をつけて、芝居作りに取り組んだつもりだ。それがうまくいっているかどうか、皆さんには、ぜひ生の舞台で確認していただきたいと思う。

 高校生には高校生にしかできない表現のカタチがある。そこに、彼らの生きる真実の姿が凝縮されていれば理想的だろう。
 不器用な部員たちは、4カ月間、この芝居に取り組んできた。どうか「まっすぐさ」や「ひたむきさ」が、いいカタチで観客の皆さんに伝わりますように。心に残る一期一会になりますように。
 もちろん、出来は「神のみぞ知る」だ。だが、僕は、そうした「カタチ」が、舞台の上で再現されることを、実は強く強く確信してやまないのだ。なぜなら、彼らは「いっぱいいっぱい」だからだ。彼らは、不完全だからこそ完璧なのだ。それを先人は「青春」と言ったのだ。
 僕は、今回、あきれるほど楽観的な気分で、開幕を待っている。
(2008年5月)