いっぱいいっぱいのカタチ

 2008年5月に書いた拙文。城北高演劇部の牟岐公演を観て、この文章のことを思い出したので再録します。高校生のありようは、ひと昔前と変わってないですね。

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 いっぱいいっぱいのカタチ

 僕は、高校の演劇部の顧問をやるかたわら、大学生や社会人といっしょに演劇を作ってきた。そのうちのひとりと、「高校生の演劇とオトナの演劇の違い」について話をしたのだが、そこでの会話で、なぜか印象に残ったフレーズがあった。
 「高校生の演劇は、いつも、いっぱいいっぱいだよね」
 「いっぱいいっぱい」というのは、「いつも自分の能力ぎりぎりのところで芝居に取り組んでいる」という意味だ。日々の城北演劇部でも、目につくのは、不器用で、未熟で、段取りをこなしきれず、アップアップしているメンバーの姿だ。もちろん失敗も多い。オトナの演劇と比べると、技術的な面では、天と地ほどの開きがある。

 ただ、そうした、打算なしに瞬間瞬間を生きる高校生のひたむきさや正直さこそが、人の心を強く動かすこともまた確かなのだ。自戒の意味をこめていうと、大人になるにつれ、どこかに余裕が出たり、「これくらいでいいだろう」という気持ちが出やすくなる。オトナであっても、かつてはひたむきに生きてきた時間があったはずのに。

 5月25日、城北高校演劇部は、トミニシ演劇部で1997年4月に上演した芝居の再演を、ヨンデンプラザ徳島で行う。この芝居は、廃部寸前の演劇部を題材に、せっぱつまった高校生たちの「気分」と「気持ち」をたっぷり詰めこんだ作品である。城北高校演劇部では、テクニックや小手先の芸ではなく、台本が本来持っている「まっすぐさ」「ひたむきさ」を損なわないことに気をつけて、芝居作りに取り組んだつもりだ。それがうまくいっているかどうか、皆さんには、ぜひ生の舞台で確認していただきたいと思う。

 高校生には高校生にしかできない表現のカタチがある。そこに、彼らの生きる真実の姿が凝縮されていれば理想的だろう。
 不器用な部員たちは、4カ月間、この芝居に取り組んできた。どうか「まっすぐさ」や「ひたむきさ」が、いいカタチで観客の皆さんに伝わりますように。心に残る一期一会になりますように。
 もちろん、出来は「神のみぞ知る」だ。だが、僕は、そうした「カタチ」が、舞台の上で再現されることを、実は強く強く確信してやまないのだ。なぜなら、彼らは「いっぱいいっぱい」だからだ。彼らは、不完全だからこそ完璧なのだ。それを先人は「青春」と言ったのだ。
 僕は、今回、あきれるほど楽観的な気分で、開幕を待っている。
(2008年5月)