ポメラ雑感

■テキスト専用入力機、ポメラ到着。7月29日に新型が出るそうだが、型落ち品を買った。 ネットにつながらないので、時間の浪費や誘惑から逃れられるのはいい。オイラの場合、ひと昔前の方が、腰の据わった、長くて深い文章を書いていた。環境を変えて、思考や表現を変えたい。 https://t.co/UL9nAKXbpk

 

ポメラ。だいぶ慣れてきた。優れている点は、ディスプレイを閉じても復帰が早いので、気軽に閉じられること。PCのある机上で使う時は、開けたパソコンの手前にポメラを置いている。閉じたポメラパームレストになる。

 

ポメラで書いたら、つい夜更かしして今日はクタクタになる。思った以上に集中できる。そういえば書くことの達成感が好きだった。今一度、あのときの感覚を取り戻せたらと思う。自分はどうして書かなくなったのだろう?

 

■この夏は、果たせてなかった約束を果たそう。ブログ「フルタルフ文化堂」に四国大会の劇評をアップしました。遅くなってすみません。「四国高演協だより」にも載せた原稿ですが、大幅に改稿しました。https://t.co/UxK8FAkTV7

 

■こちらも。節目を過ぎて、慣性に身をゆだねてここまで来てしまった自分。この夏は一歩踏み出したい。https://t.co/azunEkSdcS

 

 

 

 

松山商「やまない雨のシタで・・・」に驚いた話

 2021年度の高校演劇の四国大会は、12月に松山で開催された。このとき上演された松山商業の作品についての劇評。大変心に残った作品でした。初出は「四国高演協だより」ですが、だいぶ改稿してみました。

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 松山商「やまない雨のシタで・・・」に驚いた話


                         古田彰信

 2021年12月、松山商の「やまない雨のシタで・・・」を四国大会で観た後、劇評を書きたい書きたいと思っていたのだが、なかなか筆が進まなかった。観た直後の鑑賞メモには「生徒創作の中では、理想にもっとも近い形」と書いたほど個人的には感銘を受けた。何というか、作品として屹立していたのだ。だが、下手に感想を書いてしまうことで、作品解釈が単純化されて自分の感興が平坦になってしまうのも怖かった。いっぽうで何故か最優秀優秀には挙げられなかった本作が、このまま皆の記憶から消えてしまうのは惜しいという思いもあって、2022年春に発行された「四国高演協だより」に同題の拙文を寄稿した。以下の文章は、「四国高演協だより」の原稿を改稿したものである。

 

 松山商の「やまない雨のシタで・・・」のあらすじはこうである。閉校まぎわの島の分校、大雨のせいで学校に閉じ込められた高校生たち六人。非日常な状況の中、ふとしたきっかけで明らかになる秘密の数々。平穏にやりすごしてきた表面的な関係に亀裂が入り、押し隠していた愛憎が噴き出して、高校生たちは戸惑い葛藤する……。

 まずは状況設定、高校演劇離れした巧みさに驚いた。例えば、登場人物を「閉校まぎわの」「島の分校」に置く。閉鎖的で濃い田舎の人間関係の中で育ってきた幼なじみ同士という特別な状況をつくりあげることで、ある意味えげつない、感情むきだしの会話も成立するような関係を創出している。空気感を上手くとらえ、作者は島で生活した実経験があるかと思わせるようなリアリティが醸し出されている。

 

 冒頭シーン。怪談話をする女子たちの場面からはじまる。一人が、血まみれのドッペルゲンガーに追いかけられる「夢」の話をする。無意識や夢の話と言えばフロイトである。本作には、イメージや隠喩を操り、観客をフロイト的解釈に誘うしたたかさがある。
 怪談話は、後半で反復される。「血まみれのドッペルゲンガーに追い回された挙句『その子』は死に、死体は水の中で醜く膨れあがる」。前半であいまいだったモチーフが、反復されることで明確になる。

 特筆すべきなのは、フロイトドッペルゲンガーなどが、話を展開させるための都合のいい手練れの道具としてカタログ的に使われているのではなく、生のリアリティを実感するための「全力の小道具」として使われている感じが芝居から伝わってくるのは、本作が生徒創作だからだろう。懸命さもまた本作の魅力でもあるのだ。

 

 本作で屹立しているのは「死のイメージ」である。ある登場人物は、自殺念慮にとらわれ、リストカットを繰り返す。もう一人は、友人がいじめで自死したことをトラウマとして抱え悩む。死への執着や衝動(タナトス)が登場人物を突き動かす原動力であることを明かす。

 内田樹フロイト的解説の言葉を借りると、ドッペルゲンガーは「自分の中にある自我に統合されない欲望や思念が、別人格として外部化されたもの」「若い人が「自分らしさ」を性急に確定しようとする」ときに使われる※1、とのこと。死について考えることは、生きることについて考えること。ドッペルゲンガーは、単にサスペンスを高めていく手段としての小道具にとどまらない。自分らしい生き方を探ろうとする作り手の切実な青年期の葛藤が、無意識に物語に反映されているとも言えるのだ。

 

 さらに水のイメージは広がりを見せる。登場人物たちは「雨=水」によって「夜の学校=冥界」に閉じ込められる。死の連想によって全員の抑圧の釜の蓋がひらく。荒々しい嵐の効果音や照明の揺れは、限界状況に追い詰められた登場人物たちの、衝動的な行動を後押しし、一人ひとりを、タガの外れた、異様な行動に駆り立てる。
 ある者は、前後の見境いなく皆の前で恋の告白をするし、ある女子は、ことさら攻撃的にクラスメートを罵り「親友」の同性愛的な恋情にも嫉妬し執拗にいじめてみせる。またもう一人の男子は、自分がいじめられていたこと、発達障害的な傾向があることを一人の女子に告白し、わざわざ「僕らは似ている」などと言うのである。

 実際の高校生は、この芝居ほどに軽率で衝動的な行動はしないだろう。観る側も、登場人物たちの唐突さに違和感を覚える展開である。だが作り手は、行きあたりばったりに事件を起こしているのではない。舞台を「閉校まぎわの」「島の分校」に設定し、豪雨で閉じ込められた状況を作り、舞台上の役者の現実に根ざした日常のありふれた関係の中から、死や生の隠喩やイメージを隠し味にして登場人物の衝動を後押しし、「ありえない」ドラマを周到に立ち上げる。「日常の延長線上にある、リアルにタガの外れた世界」、異様で凶暴、ファナティックな修羅場感あふれる必然的な展開を、説明ではなく関係性の中に現出せしめた。そのことを「演劇的」というのである。それこそを高く評価したいと思う。

 

 いっぽうで人物の造型には、作り手の愛情が感じられる。ストーリー展開に奉仕するだけの存在ではなく、内面を深く見つめ、役柄を彫り込み、身の丈に合わせ実感の乗った表現を立ち上げようと格闘した跡が伺えた。葛藤は生きづらさを抱えた人なら十分共感できるもので、「切実さのリアリティ」とでも言うべき醸成が見られる。
 生徒創作の荒々しさの中に、うまさと、役者の素の部分とつながる切実さのリアリティが併存している。そうした複雑さに、僕はこの作品の魅力を見た。

 

 そしてダメ押しは終盤、異様なセリフをさんざん積み上げたあと、登場人物の一人が言う「普通の人間なんか、存在せんやろ」というセリフ、これにはやられた。このセリフは、いじめ、発達障害リストカット、同性愛など、現代の傷つき闇を抱えている登場人物たちを肯定し、浄化する。そしてそれは、目の前の登場人物たちだけに対して発せられたものではなく、世の中のすべての人、闇を抱えて苦しむ人々に「私も「こちら側」にいる」「あなたはそのままでも生きる意味があるんだ」と、その多様性を認め祝福しようという創り手のきっぱりとしたメッセージに思えて、すっかり僕は嬉しくなったのだった。

 

 他、役者の演技は、気持ちがよく乗って、登場人物の個性をうまく描き分けていたし、ドラマを進めるための先生の存在や、デモステネスの名言「逃げたものはもう一度戦える」の使い方、タイムカプセルなども巧妙だと思ったことも記しておきたい。

 

 「やまない雨のシタで・・・」から連想したのは、1990年代「月の岬」「夏の砂の上」といった傑作を生み出していた頃の松田正隆の作品群である。ありふれた何げない日常描写の延長線上に、隠された異様で複雑な感情のしがらみを描いた。そういえば拙作「白の揺れる場所」などの作品も、松田正隆から強く影響を受けたのだった。僕がこの作品に惹かれるのも、自分が作ってきた作品と、どこか類似性があるからかも知れないと思った次第である。

 別宮さん、またいつか、よければどこかで上演させてくださいね。

 

※1 ttps://twitter.com/levinassien/status/1552799368365101057

自分のペースで、ひとつずつ、ゆっくりと

 数年前のクラス通信。高2向け3月号に書いた原稿が出てきたので、こっそりと公開しますね。もちろん高校生向けです。
 
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  高3になる君へ
   
                                              古田アキノブ
 
 皆さん、いかがお過ごしですか? 
 4月から「高校3年」ですね。これからクラス替えがあったり受験があったり、いろいろ不安も先に立つと思います。
 初めてのことにチャレンジし、前に進むのは、不安がつきものです。でもあなたはいままで何度も「はじめて」を、乗り越えてきたのですね。そして今のあなたがあるわけです。
 
 たとえば言葉をしゃべれるようになったのも、立って歩けるようになったのも、あなたは、そのやりかたを、必要に応じて自然に習得したからです。人によって早い遅いはありますが、あなたは、自分のペースで少しずつ、習得のステップを上がってきたのですね。
 目の前のハードルが高いと、不安に感じます。でも幼子が言葉を学んだときのように、ひとつずつ、ゆっくりと。それは自分の理解できるペースでいいのです。大切なのは、毎日、向き合って、絶えず考えながら反復を続けること。その積み重ねが、あなたを成長させるのです。ふと気がつくと、難しいと感じていたことが、それほどでもなかったことに気づくはずです。
 いけないのは、難しいから「自分にはできない」と決めつけてしまうことです。あきらめてしまうことです。踏み出さないことです。やらないことです。「難しいからできない」ではありません。「やらないからできない」のです。

 高みまで上ると、さらにたくさんの、今まで気づかなかった「さらに難しいこと」が見えるはずです。でもひるむことはありません。そのときあなたは「難しいから楽しい」「難しいからやりがいがある」と思えるメンタルを、きっと獲得していることでしょうから。
 一年間お疲れさま。そして次の一年があなたにとって良い年でありますように。

皆さん、ありがとうございました。

 

 富岡西高演劇部同窓会を終えて

 

 何の変哲もない場所に人が集まり、照明が当たり、音が流れ、緞帳が上がり、役者が動き出すと、そこは人の心を動かす場所に変わります。こんかい懐かしい人たちと出会うことで、廃校を利用したスペースが、とても意義深い場に変わるのに驚いて、これこそ芝居みたいだなと思いました。

 

 あれはもうだいぶ前のことなのに、皆さんいい意味で全然変わってなくて、忘れていたことをいろいろ思い出しました。皆さんがセレクトしてくれた当時の写真やスライドショーには、ルーズソックスを履いたりしている高校生たちが、本当にいい顔をしてたくさん映っていて、改めてあの頃を実感しました。ああ、みんな、こんなにいい顔をしてたんだ、輝いてたんだと思うと、熱いものがこみあげてくるのを押さえることができませんでした。

 

 直前までは退職の実感もあまりなかったのですが、「陽の当たる教室」っていうちょっと古い映画で、R・ドレイファスという役者が演じていた「老」教師の姿を思い出して、それが脳内で自分に重なって、おい嘘だろと思わず独り言を口走ってしまいました。

 

 今回企画された方々、出席された方々はもちろん、ZOOMで近況を語ってくれた方々や、お気遣いいただいた方々、そして今回コンタクトできなかった方々も含めて、みなさんがトミニシ★エンゲキのかけがえのない一人ひとりであり、あの時全力で芝居に打ち込み、泣き、笑い、葛藤し、生きたことを今回改めて確認することができました。約10年間、それぞれ年度は違えど、皆さんと密度の濃い奇跡の時間を共有できたこと、思い出を共有できたことを、とても嬉しく思っています。

 

 定年退職を迎えましたが、フルタはまだ教員を続ける予定です。4月からは徳島北高での勤務です。ここは演劇部がない高校なので、少し寂しく思っています。ですが今回の凝りに凝った企画の数々、このような場をつくっていただいたこと、そして皆さんの心の中にトミニシ★エンゲキを残しておいていただけたことを心の糧として、明日からの日常を生きていこうと思っています。

 みんな、ありがとう。

                 古田彰信

広い世界を見ようぜ■■金城一紀「GO」感想

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勤務校の図書館が発行している「Library News」2021年10月号に、原稿を書きました。

7~8月に「高校生に贈る人権図書フェア」と言う展示をしたので、その流れで、金城一紀「GO」を高校生に向けて紹介しました。

 

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  広い世界を見ようぜ

 

 みんなは本を読むだろうか。
 本は広い世界を見せてくれる。知らないことを教えてくれる。買えばお金がかかるけれど、図書館ならタダで読める。
 7月に図書館で「人権フェア」のコーナーを作ってもらった。住井すゑ橋のない川」などの名作から、昨年度講演に来ていただいた「せやろがいおじさん」の本まで並べてもらった。展示はもう終わってるけれど、本はちゃんとあるので、みんなが来るのを待っている。
 司書のN先生に「マンガの「ゴールデンカムイ」はアイヌ文化を学ぶのにとてもいいですね」と言ったら、な何と、サッと買ってくれた! とても嬉しい。これ、面白いのでとくにオススメ。マンガだから手軽に読めるし(ちょっとグロだけど)。
 N先生は「せっかくだから、ライブラリーニュースに、人権の本について、何か書いてくださいよ」と、ニコニコしながらおっしゃる。「やりますよ」と二つ返事で引き受けた。
 いい本を紹介するのは楽しい。「人権フェア」に置いてあった本は、どの本もとてもすばらしいのだけれど、その中から今回は、金城一紀「GO」を、今日は皆さんにすすめることにする。

 

 「GO」金城一紀 ★★★★★
 高校生の主人公が女子に出会って成長していく恋愛小説、と書けば、よくある話だと思うだろうが、これがどっこい、主人公が「在日韓国人」というところがミソだ。差別や分断、疎外感や葛藤が通底に流れてて、10代がとてもリアルに描かれている。
 主人公はケンカが強い。プロボクサーだった父親からボクシングを教わってきた。小学校時代のトレーニング中のセリフが忘れられない。左腕をまっすぐ伸ばして、グルっと一回転させられた主人公に、父親は言う。「お前の拳が引いた円の大きさが、お前という人間の大きさだ。手が届く範囲のものにだけ手を伸ばしていれば、傷つかずに生きていける。円の外には手ごわいヤツがいっぱいいる。殴られりゃ痛いし、殴るのも痛い。それでもやんのか、円の中にいる方が安全だぞ(大意)」
 マイノリティの側にいて、傷つきながら前に出て、つかもうと衝動的に手を振り回す。回ってこないボールを、自分の未来を、最愛の人を、幸せを手に入れるために。腕っぷしこそ強いけれど、ちゃんと傷つきもする主人公の切実さや苦しみが痛いほど伝わってきて、僕は泣けたし、その生き方にあこがれる。
 この小説、十代にこそ読んだ方がいい。壁にぶつかる主人公の姿の向こうには、狭い価値観や社会のシステムにとらわれて、流されがちな僕たちの姿が見える。差別や同調圧力がいたるところに見られる社会で、どう生きていくべきか、その「構え」を教えてくれる。その「構え」とは「俺は俺」。そう、俺は俺だ。
 人を気にして、すくんでばかりのわれわれは、狭い枠の中で飼われている羊のようなものになっていないか。群れの羊に一番見えていないのは、実は「自分」なのかもしれない。
 「GO」の主人公は、恋人の勧めで多くの本を読む。本は世界を見せてくれる。図書館で本を借りて読むことも、円の外にある何かをつかみとることだ。ケンカはしなくてもいいから、みんな、図書館へ行って、広い世界を見ようぜ。(了)

 

 

豊かな真実を 生きてください

 久しぶりに書きました。勤務校で発行する人権啓発新聞に掲載する予定の記事です。高校生向けです。

 

 

  あなたの考える「真実」とは 何ですか

 

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  個人的なことですいません。これを書いている古田の家には、小学3年男子がいます。
 近頃「名探偵コナン」が大のお気に入りです。二十巻以上ある劇場版DVDを全部観て、テレビ版を攻略中です。コミックも含め「名探偵コナン」には、子どももひきつける魅力があるようです。
 一方、古田は、田村由美という人の「ミステリと言う勿れ」という少女漫画が好きです。
 このマンガの魅力は、探偵役の男子大学生が個性的な点です。延々とよく喋ります。事件とは直接関係ない、生き方や社会的な問題に関して、女性や子どもなどの立場からツッコミを入れ、読み手の常識を揺さぶります。それで話が脱線するかと思いきや、本筋とからんで、なるほど、と思わされます。
 例えば「真実はひとつ」という刑事に対して、主人公が言うセリフはこうです。
 「真実はひとつなんかじゃないですよ」「人の数だけあるんですよ」
 ああ、何と挑発的なセリフでしょう。コナン君の決めゼリフは「真実はいつもひとつ!」です。作者が「名探偵コナン」を意識してること間違いないですね。
 ここで私たちが学ぶべきは「視点によって見え方が変わる」ということです。一つのリンゴでも、上から見るのと下から見るのでは形が違います。何でもないような段差でも、健常者と足の不自由な人では、受け取り方が全く違います。
 偏見とは「偏った見方」と書きます。今の自分の一方的な見方にこだわるだけでなく、いろいろな方向から眺めて自分を高めた方がいい。それが、被差別の当事者の気持ちを知ることにつながるのですね。

 

 と、サラリと書いてみましたが、こうした多面的な考えに基づいて思考したり議論するのって、今のところ、高校ではあまりできてないなあと思うんですよ。
 日本社会は同調圧力が強く、対立を好みません。わきまえていることが美徳という空気もあり、議論や対話が活発になりにくいです。正解があらかじめ決められているような空気があります。こうした雰囲気の中では、人に対する理解が深まらず、取り組みが表面的になり、自他の差別意識が温存されてしまいます。
 生きづらさを感じている人の「真実」より、エライ人のかたよった「真実」の方が尊重されて、押しつけられることもあります。さる2月3日、東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長が「女性がたくさん入っている会は、時間がかかる」と発言しました。女性蔑視を含んだ発言に対し、そのとき会議の場にいた大人たちは、一緒に笑ってスルーしてしまったそうです。それを聞いて「あ、ここでも同じことが繰り返されている」と、古田は思いました。

 自分がどんな「真実」を生きるのか、自分の意志で決められます。あなたは、あなたの真実を生きてください。でも、同じ真実を生きるなら、差別意識や偏見にまみれた「真実」ではなくて、自分の良心に従って、生きづらさを感じている人の側に立った、豊かな「真実」を生きてほしい、そう思います。

 


 「自分は差別しない」と思っているだけではダメです。愛想笑いとかしたら、もっとダメです。必要あれば、差別する人の言う「真実」に対して、言葉と態度で、毅然として「NO!」を示していく。差別は絶対に許さない。それが、僕の考える、豊かな「真実」です。
 勇気を示すのって大変です。ドラマのようには上手くいきません。ターボエンジン付きのスケートボードも、自分にはありません。でも、たとえグダグダになっても、踏ん張りどころはギリギリまで踏ん張りたい、そう思っています。(古田)

 

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呪いの言葉にあらがう

 本年度から人権教育係に復帰である。今年度は校内で「人権新聞」を発行している。この記事は7月発行の分。

 前の学校でもよく似た文を書いたが、内容を一歩前へ進めた。


 生きているかぎり、社会的な立場からは逃れられないが、教師だからといって、ことさらに「教師らしく」しているわけではない。むしろ逆だ。個人として書けることを、ギリギリのところで書く。学校に漂う「呪いの言葉」には負けない、同志ととともに、それがオイラの「自由に生きる」ための一歩だ。


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人権作文の書き方ガイド


 一・二年の人たちは、夏休みに人権作文が宿題として出されるわけですが、みなさんなら何を書きますか? よくある疑問を、Q&Aでまとめてみました。もちろん三年の人も、読んでみて下さい。

Q1.誰かの作文を拾ってきたらバレますか。。
 A.はい。バレます。

 言葉には書いた人の姿が見えます。あなたの言葉と他人の言葉をなじませるのは難しいでしょう。今は剽窃や引用をチェックするソフトもあります。
 あなたの人間的評価が下がってしまうだけなので、やめておいた方がいいでしょう。

 

Q2.実体験もなければ、身の回りに差別などありません。どうしたらいいですか。
 A.見落としていませんか?
 
 何気ない会話等の中にも、考えるヒントがあります。ひょっとしたら、あなたが気づいてないだけかもしれません。「常識だ」「当たり前だ」と思っていることがらや、何でもない心の動きの中にこそ、ヒントが隠れているのだと思います。

 

Q3.作文を書くうえで、気をつけることは何ですか?
 A.「差別はいけない」といった、ありきたりの結論は避けましょう。
 
 「差別はいけない」ことなら、誰でも知っています。当たり前のことを書いても、人の心は捉えられません。あなたの視点は、あなただけのものです。自分の感性を大切にして、あなたでしか書けないことを書くべきです。
 立派なことを書く必要などありません。変にきれいにまとめなくてもいいです。じっさいに考えたことを、あなたの素直な言葉で綴りましょう。

 

 なぜ「自分の言葉」で語るべきなのか

 

 ここからが言いたいことであります。

 突然ですが、田村由美「ミステリと言う勿れ」(フラワーコミックスα)というマンガが面白いです。ミステリ仕立ての少女マンガなのですが、推理から離れて、人間観察の鋭い探偵役の主人公の言うセリフが鋭くて心に残り、オススメです。
 で、美形で細面の主人公が、こんなことを言っています。

 「「女の幸せ」「女は愛嬌」「女の武器は涙」なんて言葉は、女の人から出た言葉じゃきっとない。だから間に受けちゃダメです。女性をある型にはめるために生み出された呪文です」

 そういえば、誰かに都合のいい「常識」を、人に押しつけるために使われる言葉って、いたるところに転がっている気がします。
 「女のクセに」「男らしく」「○○はアホばっかり」「障がい者はかわいそう」「自己責任だから仕方ない」「逆らっても無駄」「いじめられる側にも問題がある」……とキリがありません。
 手垢のついた他人の言葉を使うということは、こうした言葉も無造作に拾う可能性が高まるということです。「常識」っぽい言葉を受け入れていると、思考の枠組みが狭められ、型にはめられた行動がしみついてしまいます。無自覚なのでなかなか抜け出せません。
 それを打ち破るには、深く考えて、あなたの生活実感や経験から出てきた具体的で腑に落ちる言葉、つまり「あなたの血肉となった言葉」で語ることしかないと思います。
 借り物の言葉に縛られていないかチェックして、自分の価値観に基づき、自分の思ったことを語る、それがあなたが「自由に生きるための一歩」になるのだと思います。人権作文を書くとは、そんな訓練に他なりません。あなたの思いを人に分かってもらわなければなりませんし、納得のいく文章は、なかなか書けないものですが、じっくりと取り組むことは、とても意味のあることだと思います。
 やっつけ仕事で通りいっぺんの、手垢のついた抽象的な言葉でお茶を濁すより、自分の中の差別意識と向き合って、自分の言葉で人権について書いてみませんか?
 健闘を期待しています。    (古田)