ジャージー・コジンスキー「庭師 ただそこにいるだけの人」


庭師 ただそこにいるだけの人

庭師 ただそこにいるだけの人


 映画「チャンス」の原作。映画は原作にほぼ忠実に作られているのがわかる。チャンスを演じるピーター・セラーズの静かなおかしみのある演技がとても印象的だった。心臓に病を持ち、はげしく動くことの出来なかったセラーズの、後期の代表作にして遺作である。


 (あとがきより)「チャンスは孤児である。偶然(バイ・チャンス)に「主人」に拾われたことから、チャンスと呼ばれている。幼い頃から庭師として育てられ、その家と庭から一歩も出たことがない。学校にも通ったことがないから、読み書きができない。
 チャンスが好きなものは、庭とテレビ。庭仕事をしているとき以外は、ひたすらテレビを見ている。ところがある日、高齢の主人が死んでしまう。もう、主人の庭では働けない。チャンスは新しい住まいと仕事口を見つけるために、生まれて初めて街に出る。
 チャンスは庭のことしか知らない。会話にしてもテレビで見た場面を思い出して、それをなぞることしかできない。しかし、仕立てのよい「主人」のスーツを着た容姿端麗なチャンスの、一見自信にあふれた物腰と言葉に人々は魅了されてしまう…」


キャンバスに絵を書くように


 存在を描く小説である。主人公は何もできない。何もしない。そこにいるだけの存在。しかし回りは彼のことを誤解して「傑出した人物」と思い込んでいく。
 彼には過去がない。ソ連の諜報部が調べても「真っ白」。真っ白だからこそ、人は彼に理想を期待する。キャンバスに絵を描くように、人は彼に理想を描くのである。
 彼には名前もない。彼は自分の名前を聞かれて、「庭師です(ガードナー)」と言う。そのおかげで彼の名前は「チョンシー・ガードナー」と誤解される。ガードナーとは、意味深な名前である。彼はとても植物的。植物のように「そこにいるだけ」。


 アメリカでは、受動的な人間は価値がないとみなされる。この作品が書かれた1970年はとくにそうだ。政治の季節である。ノンポリなんてダメだ、そういう時代である。政治思想をペラペラと空疎に喋る輩が当時はたくさんいたことだろう。
 あとがきによると、作者は第2次大戦のときに、ポーランドの片田舎で浮浪児として生きながらえ、このときのトラウマによって、5年間、口がきけなくなったという。言葉を喋れないということは「そこにいるだけ」と同じ。こうした壮絶な体験が、この作品にも影を落としているのかも知れない。
 また作者がアメリカに渡ってきたときも、彼は英語をまったく知らなかったそうだ。英語を知らないと、アメリカ社会では「そこにいるだけ」と同じである。
 日本では、沈黙は美徳であるが、アメリカではそうではない。自己主張しなければという強迫観念が社会を支配している。そうしたアメリカ文化に対する批評性が、この作品では確かに起動している。作者の疎外感や孤独感が、作品を育てたのではないか。そんなことを思った。


めがね(3枚組) [DVD]

めがね(3枚組) [DVD]


 たそがれるにも、もっとうまいやり方があるのではないか、と思う。
 作り手が直感的に面白いと思ったことを、ストレートかつイノセントに表現したという印象が強くて、ノレない観客(オイラのことだ)にしてみたら、少々退屈してしまう。
 「たたずむこと」「ボーッとすること」自体はとても前向きで批評的な営みだから、もう少し戦略的に作ってくれたら納得できたかも知れない。


 「何もしない」ことの批評性を立ち上げるために、先達は、いろいろな企みを練っている。小津安二郎北野武、演劇畑では、ベケット別役実平田オリザ宮沢章夫しかり…。見せるということについては、皆、結構したたかだとオイラは思う。