青年団第62回公演「革命日記」



 観劇してから時間がかなり経過したが、妙に気になって意識の端にひっかかっているので書くことにする。青年団第62回公演。6/15、四国学院大学ノトススタジオにて観劇。


 まずは芝居以外の話から。
 2011年の年初、チュニジアジャスミン革命が燃え上がり、ひろく中東に飛び火して、エジプトでは30年続いたムバラク政権が倒れた。マスコミの報道では、一部期待もあってか(?)、さらに中国にも飛び火すると報道されたが、そうはならなかった。デモへの呼びかけはあったが、中国民衆は集まらなかった。


 中国はすでに豊かな国なのだ。豊かな国では革命は起こらない。現政権に対して不満はあっても、社会が混乱するのはいやだ、自分の得た富や利益を手放したくはない、それが中国国民の実感だろう。文化大革命や大躍進の時代には戻りたくないのである。


 日本ではさらにそうだ。一昨年、オイラは「学校」というタイトルで、革命を夢見る高校教師の話を劇にした。主人公にはオイラ自身を投影させた。忌野清志郎にあこがれてロックしても、尻踊りにしかならない、そんな現実を戯画化して描いた。いや戯画化して描かざるを得なかった。


 高度に複雑化した日本社会。革命は、非現実の中に蜃気楼のように浮かび上がる幻に過ぎない。ハルマゲドンという名前の変革を自作自演しようとした、オウム真理教も、幻を現実にすることはできなかった。


 革命が成功し、その名を歴史にとどめた者たち。ワシントン、ラファイエット、ナポレオン、ガリバルディレーニンガンジー孫文ホーチミンカストロゲバラ・・・・そうした聖者の後に続き、社会をがらりと変える選択を、人々はもはや求めていない。変革しても、今よりよくなるという保障はないのだ。安楽で微温的な生活の中で、小さな不満をかかえ、毎日の些事に振り回されながらも日々を過ごしていく。それが今の日本に住む人々の人生だ。


組織とは何かという問題に誠実に向かいあう


 「革命日記」は、日常の些事に振り回され、我慢し挫折し後退していく革命者たちの姿を綴っている。舞台は、住宅地の建売住宅のリビング。そこは、ある過激派組織のアジト(モダンリビングにアジト、という設定そのものが矛盾であり皮肉だ)。集まっているのは、そのメンバー。空港突入と大使館襲撃の計画を練っている。ところが、一般市民を装っているために、近所の主婦が訪ねてきたり、穏健な組織だと思っている支援者が知り合いを連れてくる。テロの相談も、なかなか前に進まない。革命という美学からはほど遠い、日常のドタバタが延々描かれる。恋愛感情や子供や家族の軋轢が、問題をますます複雑にする。


 平田オリザがプログラムに書いていたが、「革命」という言葉を、「宗教」や「芸術」と置き換えたとしても、違和感がない。「劇団という、若い俳優たちの生活のある一定部分を預かる仕事をしいている以上、「私たちはオウムではないのか? 違うとしたら、どこが違うのか」という問いかけと、常に無縁でいられるはずがありません」というプログラムの平田の言葉からもわかるように、平田オリザは、そして青年団は、作品を通じて、革命の問題を、自分たちの組織と個人の問題として考えようとしている。その自覚が、作品に命を与えているのだと思う。


 平田オリザの仕事が、日本の現代演劇を一歩前に進めたように、そうした生き方が、我々の生活や日常を、少しだけ改善し、前へ進めていくエネルギーとなる。それは、「革命」というにはおよそ似つかわしくないスピードだけれど、革命がリアリティをもたない現代のスピードなのだ。もちろん、魂を売り渡してマスメディアに乗るという選択肢もあろう。しかし誠実にやるには、このスピードしかない。そのスピードは、おそらく昔とそれほど変わらない。革命という特急列車は、もはやない。そのことを、地道な青年団の活動こそが示唆している。そんなふうに思えてならない。