マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙



 (本稿は映画の結末に触れています)
 認知症の元英国首相マーガレット・サッチャーが、朦朧とした意識の中で、すでに死んだ夫デニスと会話しながら、彼女の政治家としての半生を振り返る。サッチャーを演じたメリル・ストリープは、2011年度米アカデミー賞で主演女優賞を受賞。他にジム・ブロードベント、アンソニー・スチュワート・ヘッド。監督は「マンマ・ミーア!」のフィリダ・ロイド。イギリス映画。


 マーガレット・サッチャーの子供たちは、こんな惨めで露悪的な映画の製作によくGOサインを出したなと思う。食料品店の娘として生まれ、「大切なのは生き方よ。台所で皿を洗う人生なんて!」と言いながら政治の世界に飛び込んで首相にまでなったサッチャーが、老いさらばえて認知症になって初めて自分の犠牲にしていたもの(=家族)の大切さに気づく。「皿なんて洗いたくない」と言った彼女の最後のシーンは、ティーカップをひとり洗うシーン。悲しくも皮肉なエンディングと言えるだろう。


 「マンマ・ミーア!」しか映画監督としての実績のないフィリダ・ロイドのことはよく知らないが、実績ある舞台演出家らしい。過去と現在が交錯する結構複雑な構成を、手際よく印象的に見せていく。よく似た構成の映画として「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」を思い出した。アカデミー主演女優賞のメリル・ストリープは、他でも絶賛されているとおり、年齢による変化を抑制した表現で、現実のサッチャーを「よく真似て」みせている。


 内容的には、1970〜1990年を中心に、ヒース内閣での教育相時代を経て、首相時代の経済の建て直し政策、頻発する暴動やテロ、フォークランド紛争人頭税導入から退陣までが、本物のニュース映像の挿入とともに、羅列的に描かれている。内容は並列的・図式的・紙芝居的。より深い人間像や、共感できる現代人の苦悩が描かれているという感じはしない。浮かび上がってくるのは、政治家の仕事に専念することで犠牲にした家族に対する痛恨の思い、ぐらいのもの。イギリスの首相として、戦争を率先しておこなった女性の一代記にしては、落としどころのスケールがメロドラマチックで小さいのである。首相を務めた時代の高揚感や苦悩にメスを入れた、サッチャーという希代の政治家ならではの、特異な人物の、骨太のドラマを期待していたのに。そういう意味では、本作は「アラビアのロレンス」などと比べるのもおこがましいが、はるかに及ばない。


 ドラマには、マーガレット・サッチャーの夫デニスが登場するが、彼は認知症老女サッチャーの「妄想」である。彼はサッチャーにしか見えない。この仕掛けは、早い段階で観客に知らされる。「妄想」と話をすることで、彼女の抱えこんだ心の闇を明らかにして、ドラマを進めていこうという算段である。だがこれには問題がある。夫デニスは所詮妄想なのだから、彼女の葛藤は一人よがりな苦悩に過ぎない。ドラマはサッチャーの中で完結する。つまり彼女の発する言葉は、実は「一人言(モノローグ)」に過ぎないのである。


 セリフは対話(ダイアローグ)にならないと、どうしても痩せてしまう。このドラマが並列的・図式的・紙芝居的に見えるもっとも大きな問題は、そこにあるとオイラは思う。