内田樹「街場のメディア論」
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/08/17
- メディア: 新書
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昨日のエントリーに関連して、内田樹先生「街場のメディア論」より。「いただきます」について。「街場のメディア論」は、いただきます論といった矮小なものではないのだが、前日のエントリー「人権教育講話」と関連しているので、あえてこの部分を引用させていただく。内田先生の著作は、どの部分を切り取っても触発される。
「ありがとう」が言えない社会
給食のときに「いただきます」と言うことの抗議した親がいたそうです。自分は給食費を払っている。誰にも負債はない。なのに、どうして「いただきます」と礼を言わなければならないのか、という理屈でした。
この人は「衛生的に調理され、栄養学的に配慮された、そこそこ美味しい食物」が定期的に食べられる機会を「ありがたいこと」、文字通りに「確率的に低いこと」だとは考えていないのです、人類史を振り返れば、そのような機会に恵まれた人類は、全体の1%にも満たないでしょう。「給食を食べる」という現事実は、食物の生産・流通システムの整備、公教育思想の普及、食文化の深まりといった無数の「前件」の結果、はじめて可能になったものです。その先人たちの積み重ねてきた努力の成果を教授している現実に対しては「ありがたいなあ」と思うのが普通でしょう。
もちろん、子どもはそんなこと知りませんから、なんの感謝の気持ちも抱かないで、「げ、まずい」とか言って食べ残しているということはあるでしょう。それはしかたがない。子どもですからね。でも、親がそれではまずい。大人というものは子どもじゃないんですから。大人というのは、最低限の条件として「世の中の仕組がわかっている」ことが要求されます。ここでいう「世の中の仕組み」というのは、市民社会の基礎的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されているという、ごくごく当たり前のことです。現に身銭を切って、額に汗して支えている人たちがいるからこそ、そこにある。
でも、それを忘れて、「そういうもの」はそこにあって当然であると考える人たちが出てきた。「そういうもの」が存在し続けるためには、自分がその身銭を切って、自分の「持ち出し」で市民としての「割り当て」分の努力をしなければならないということを分かっていない人たちが出てきた。それがクレイマーになった。
彼らのような未成熟な市民たちが大量に生み出されたことによって、日本の市民社会のインフラの一部は短期間に急速に劣化しました。特に、医療と教育がそうです。どちらも制度的な崩壊の寸前まできています。
それは医療と教育という、人間が育ち、生きていくうえでもっとも重要な制度について、市民の側に「身銭を切って、それを支える責任が自分たちにはある」という意識がなくなったからです。市民の仕事はただ「文句をつける」だけでよい、と。制度の瑕疵をうるさく言い立て、容赦ない批判を向けることが市民の責務なのである、と。批判さえしていれば医療も教育もどんどん改善されてゆくのである、と。そういう考え方が社会全体に蔓延したことによって、医療も教育も今、崩れかけています。
そして、この医療崩壊、教育崩壊という事実にマスメディアは深くコミットしていました。メディアはこの制度劣化について重大な責任を負っていると思います。これについては長い話になるので、また来週。