小出裕章「放射能汚染の現実を超えて」


放射能汚染の現実を超えて

放射能汚染の現実を超えて


 一カ月ほど前に、無謀にも超多忙の小出先生にメールをして「本校の人権集会で講演していただけませんか?」とお願いしてみたところ「年内はすべて詰まっています」とていねいな返事をいただいた。日本の未来のために、余人に代替不可能な仕事を、時間のないなかで取り組んでいる小出先生に、手間をとらせてオイラは恐縮至極である。
 それでも小出先生の講演は、高校生に聞いてもらいたいなあと思う。



 本書は、1987年から1990年までの、小出裕章氏の著作を所収したもので、おもにチェルノブイリ原発事故での放射能汚染を受けて書かれている。今から20年前の著作だが、高木仁三郎チェルノブイリ原発事故」と同じく、その知見はまったく古びていない。
 当時予測された状況が、ふたたび福島で起こっているということである。20年の間、改善にむけて、実質的には何もなされてこなかったということであろうか。


 とくに、放射能を含んだ食物を我々は食べるべきかという議論に、小出はかなり枚数を費やして書いており、これが印象に残った。小出は「食べるべきだ」という。それも、子供たちに真実を知らせないまま放射能汚染食糧を与えるのではなく、真実を噛みしめながらそれを食べるべきだ、という。「目をつぶって食べてほしいのではなく、危険をはっきりと視ながら、目を見開いて食べてほしい(122ページ)」という。今の社会を無自覚に認めてきた国民に、放射能被害を分かち合うことで、覚醒してほしいという。その考え方は、誠実でありラジカルだ。


「・・・・原発の問題というのは単に原発だけの問題では終らないと思います。人が生きるという問題です。皆さんお一人おひとりがどうやって生きるのかという問題ですから、必ずしも原発に関わらなくてもすべての課題は連帯していると思うんです。ですから、ちゃんと考えて運動していればすべて連帯して、他の人たちを抑圧しないで、犠牲にしないで生きるような社会が作れるとすれば、その時には必然的に原発もなくなるだろうと私は思っています」


 国民を無条件に被害者の立場におくだけでは、社会は変わらない。国民が主権者なのだ。国民自身が考えなければならぬ。本書に書かれているのは、単に原発に関する知見だけではない。世界のあり方、南北問題、エネルギー問題と多岐にわたる。市民運動との連帯などの記述も見られる。1980年代としては普通だが、現代の視点で見ると左よりにも見える。左翼を忌み嫌う言論人や、右よりの考え方の人は、これを見てどう思うだろうか。


 原発というシステムが人を骨抜きにする。何が大切か、考えることを奪っていく。2兆円産業。利権に群がる人たち。莫大な交付金原発には、今の日本のかかえる問題がそのままある。
 小出は、小学生の文章を引用して言う。


 「ぼくたちは、今いろいろなことを考えようとしているけれど、おとなになったら、今のおとなたちみたいに考えなくなるんじゃないかと思いました」(92ページ)


 これは警鐘だ。多くの人々が原発について無関心になってきたときも、考えることを放棄したときも、踏みとどまってきた学者が小出氏である。我々も踏みとどまらねばならぬ。考えねばならぬ。手本はここにある。文章には、誠実で実直な人柄、学問に真摯に向かう姿勢、幅広い知見と強い意志が滲み出ている。小出氏の言うことは、当たり前のことだ。考えよう。立とう。オイラはつくづくそう思う。