海部高校演劇部/県大会上演作品「トップ・オブ・ザ・ワールド」



 第63回徳島県高等学校演劇研究大会、とても誠実な芝居に出会った。海部高の「トップ・オブ・ザ・ワールド」である。いじめの教室、救いのない教室、そこから逃げる男女。暗示的に福島第一原発事故を重ね合わせて、「震災後」に生きる我々日本人の姿を浮き彫りにする。作者が「震災後」と向かい合い、現代とはどんな時代なのか、現代を生きるとはどういうことか、格闘した跡が作品に刻印されている。ラジカルで誠実な創作姿勢にオイラは共感し、大いに感動した。以下、記録に残す意味をこめて、作品にそって、その内容を振り返ってみたい。


 幕があがると、そこは教室。アクティングエリアは照明で横長に区切られている。狭い異様な空間。これから起きる出来事の異様さを予感させる空間である。
 このドラマは寓話である。それは登場人物の名前からも分かる。「双葉マチさん」や「福島さん」という女生徒の名前は、原発事故を連想させる。双葉さんは、原発からの避難なのだろうか、どうやら転校してきたらしい。
 「福島さん」はいじめられている。いじめている生徒は「つながろう」「ひとつになろう」と空々しい言葉を口にする。それは、マスコミなどが合唱する中身のない空疎な連帯の言葉のようだ。「福島さん」は、原発事故後、復興が遅々として進まない、苦悩に満ちた福島の人々を彷彿とさせる。震災後、実際に福島県民に対する差別がいくつか見られた。それらは、閉塞感に満ちた現代の、ストレスのはけ口そのものだ。
 いじめという、定型化された「物語」の枠組みを借りることで「現代=いじめの教室」を描こうとする。作り手の意図は明確である。


 この芝居のヒロイン、天羽令衣(天使を連想するネーミング!)は、とあるきっかけで、クラス一の変人、世多界斗(「せた・かいと」あだ名はワールド)の家を訪問する。世多の家は、一家で奇妙な宗教に走り、お互いを「ワールド」「クル・セ・ママ」「シスター・テラ」などと呼んでいる。世多は、1995年3月20日の生まれだという。これは、地下鉄サリン事件の起こった日。家族の様子は、いやがおうでもオウム真理教を連想する。そういえば、クラスメイトの一人はサティアンのあった上九一色村を連想する「一色」という名前だった。


 天羽令衣は、誠実に世界の意味を探る世多に魅かれていく(世多には作者自身が投影されている。昨年の芝居もそうだったが、世界の意味を探る、ということが繰り返し描かれる)。幼い頃からマインドコントロールされてきた彼は「世界は滅びる」と言う。私たちの住む世界こそが、クソいまいましい世界。そんな世界はいっそ滅んでしまった方がいい。
 天羽令衣の世多への共感の奥底には、現代人の持つ破滅願望があるとオイラは受け取った。原発ムラは存続し、いじめは温存される。金持ちは金持ちのまま。事故があっても、世界の仕組は何も変わらない。ああこのクソいまいましい世界。繊細な世多や天羽にとっては、生きることはつらすぎる。
 世多を演じている乃一君の、正直で素直な演技には好感が持てた。彼は言う。「ボクは初めて生きたいって思ったんだ」そのきっかけは、世多が天羽令衣に出会ったことだ。この世がいまいましい世界だからこそ、大切な人に出会うことによって、そこで生きることに意味を見出していく。


 そんなあるとき、「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ」という言葉を残して、クラスメイトの福島さんが消える。「生き地獄になっちゃうよ」という言葉は、1986年、中野富士見中学いじめ自殺事件で、自殺した鹿川裕史君(13)が、遺書に残した有名な言葉。この台本が現代の暗黒面を象徴するように言葉が周到に選ばれて書かれていることは明らかだ。芝居は「福島さん」に対する悪意がエスカレートしていくサマを克明に描いていく。それでも「いじめはない」という先生。「何かあったらどうするんだよ!」と叫ぶ天羽。いじめの矛先は天羽に転じる。
 そこに、思い詰めた顔をした世多が登場。「僕は生まれたばかりの赤ちゃんなんだって。地下鉄に猛毒が撒かれた日から時間が止まっているんだ」。価値観が相対化し、どう生きればいいのか分からず袋小路にいる現代人の苦悩を端的に表したセリフ。逆襲されたいじめっ子たちは、自分がいじめていたことを棚にあげ「被害者は私たちだ」と言いつのる。タガの外れた現代の理不尽さを感じさせる場面。いたたまれず、教室から逃げるしかない世多と天羽。


 そしてふたりは「海」に行く。ここからは救済の場面。舞台は、狭い横長の空間から、大きく転換する。大黒幕は開き、ホリゾントに色が入り、地あかりが舞台の広い空間を照らし出す。世界がぐっと広がる効果的な演出。
 つかの間の穏やかな時間。ふたりは、生命の源である海の波打ち際でかけっこをしたり、水の掛け合いをする。気持ちがぐっと近くなり、幸せな時間が流れていく。世界にはふたりしかいない。ふたりだけならどんなにいいだろう。だが、このままハッピーエンドになるかと思わせておいて、芝居はもう一度暗転するのだ。


 「あたしら、どこにも行けない。ゴジラ、来ればいいのに」「このあたり、みーんな、放射能まきちらしてさ」はっとするふたり。「ゴジラ、もう来ちゃってるわ。来てるのに、あたしら何もなかったような顔しているんだ」
 安直で偽善的なハッピーエンド、予定調和的なドラマなんて、現代には似合わない。暗さこそ、重層的な視点こそ、現代をつかまえようとする作り手の誠実さの表れだとオイラは思う。もちろん、ゴジラとは、原発事故の暗喩である。作り手は、現実のヒドさを直視しようとしない現代人の精神の怠惰を告発する。世界を意識して生きよ、作り手はそうした「切々たる思い」を隠さない。そこに凛とした清々しい精神性をオイラは感じた。


 ラスト、ドラマは悲観的トーンの中では終わらない。もう一度さらに転調し、深化する。


 「でも、不思議なんだよね。あたし、世多君のこと好きなんだよ。こうやって、手つないでると、あたし世界一の幸せ者だなって思うの。おかしいよね、こんな時に。でも、あたし、今が人生で最高に幸せなんだ」気持ちを通じ合わせる二人に波の音が重なりながら、芝居は幕を閉じる。
 救いは、人と人とがつながる実感の中にこそある。ラストにかけて、天羽と世多を演じた高井さんと乃一君の気持ちがよく乗って、その思いは、ダイレクトに観客まで伝わってきた。一点の曇りなく、理解できる、オイラはそう思った。そういう点では、本当に心地よいラストシーンだった。


 この芝居では、ブルースが効果的に使われている。ブルースはアフリカ系の音楽、そしてアフリカは人類誕生の地である。世多と天羽は、この世の頂点に立ち、最後にアダムとイブになったのだ。そしてラストは海。海は生命の原点である。
 このくそいまいましい世界でも、人と人とが気持ちを通じ合わせることができるなら、この世界はまだ捨てたものではない。再生はあるのだ。ああ、オイラも同感だ。まったくの同感だ。