組合の執行部役員選挙に思う


 先週、組合の執行部役員選挙があった。今年も相変わらず各役職に立候補者は一人ずつ。信任投票である。オイラの属している教員組合は、超保守的な労使協調型組織で、組合委員長を長く務めた人が、晴れて管理職(校長)になったりする。「入っていても入っていなくても同じ」という声も多く、近年組織率も低下している。ここしばらくは、対立候補が出ることもない。


 オイラは淡々と候補者全員に「不信任」の印をつけて投票した。思えばここ十数年同じである。執行部には知り合いもいて、その人たちが、人間的にも教師としても優れた人物であることも知っている。組合活動に対しても、それぞれの立場で尽力してくれていることも知っている。


 だから、この選挙、毎年ほとんどが信任票で占められる。近年その傾向が強くて、一昨年は、もっとも少ない人の不信任票が、わずか「8票」だったので驚いていたら、昨年度は何と「3票」だった。オイラ以外に不信任票を入れた人が2人しかいないのだ! 


 今年度も、案の定、不信任票は、立候補者ひとりあたり3〜6票。対して信任票は700票以上だから、信任率はナント99%以上! この結果から、組合がとてもすばらしい活動を行ってきたと言えるだろうか?


 そうではない。批判的な人は、組合活動の低調さにあきれて、すでに去っていったのだ。形骸化しているのだ。だから批判票が少ないのだ。批判者がいないということは、健全ではない。そのことをもっと自覚しなけばならないのではないか。オイラの不信任票は、そうした意味の批判票である。


 組合が弱体化することは、権利が崩されることだ。現に、ここ10年、給与カットなどの待遇改悪をはじめ、コンプライアンスや意味のない教員免許更新制、勤務条件の改悪など、さまざまな面で勤務条件が改悪されてきたではないか。我々の働く者の矜持が、いいように穢されてきたと感じるのはオイラだけか? そして、そのことを「仕方がない」と追認することで、働く者としての誇りを投げ捨ててきたのは、我々一人ひとりだったのではないのか?