維新派「夕顔のはなしろきゆふぐれ」



 7月20日、時折豪雨に見舞われるという奇妙な天候のなか、神戸のデザイン・クリエイティブセンター神戸にて観賞。


 デザイン・クリエイティブセンター神戸は、神戸税関のすぐそばにある、旧神戸生糸検査所。昭和初期に建てられたクラシカルな建物の中には、かつては作業場だった大空間があり、今回そこを舞台として利用していた。相変わらず大規模な舞台で、間口約14メートル・奥行き約30メートル。写真を見ると分かるが、30メートルの奥行きには、パースがつけられているため、さらに長い空間に見える。延々と続くクリーム色の床と壁は、無機的だが同時にどこか暖かな感じもあり、母親の胎内を思わせる。


 この舞台上に、維新派おなじみの、顔を白く塗った30名以上の役者たちが、機械的にも見える断片的な不思議な動きと、意味が解体され感情を抑えたセリフで綴った2時間だった。今回の「夕顔のはなしろきゆふぐれ」は、抽象度が高く、慣れない観客が物語を把握しようとしてもチンプンカンプンだろう。逆に自由な観客の解釈が任されていると割り切って、見る者は自由に意味を見つけだせばいいというスタンスで見ると気が楽だ。


 白塗りの役者の発する言葉の断片から伝わってくるのは、ナウマン象の闊歩する太古の時代から現代にかけての、大阪の街の断片。ラスト、舞台の一番奥に、大阪と思われる都市の模型が現れる。都市を形成するひとつひとつの要素には脈絡や関連性がない。そうした地層のように散在する都市の歴史の断片を拾い集めて、「大阪」を蜃気楼の向こうに現出させようとした作品だと解釈した。


 キリコの絵画「通りの神秘と憂鬱」にどこか似た構図の舞台は、キリコつながりで解釈するのなら、都市を覆う人間存在の不安を際立たせているようである。キリコの絵画が南欧の光と影のコントラストを強調したように、この作品でも巨大な壁に映し出される「影」による演出が、芝居の大きな要素を占めている。都市では人は等身大の存在であるとは限らない。メディアや都市機能によって、人の能力と自意識は(虚像として)大きく高められ、それが人間疎外につながり、不安を生み出す要因になっているのではないか、そんなことをぼんやりと考えた。


 ラスト、「旅する者」が遠くにビル群を見る。建設に何十億とかかるビルは資本の蓄積の成果。都市は「蓄積」である。蓄積は「資本」だけではなく、人々の集積であり、記憶であり、欲望であり、喧噪であり、人間のありとあらゆる要素が「蓄積」されて現出した総体である、ということを、オイラはぼんやりと考えた。


 今回は恒例の屋台村も営業していた。猥雑な一角がハレの場を彩り、阪神淡路大震災以後、整備されたモダンな街と好対照をなしていた。維新派は現代を批判的に映し出す鏡として、そこにある。終演後、ふだんは何げなく通りすぎている街の風景が、いつもと違って見えた。



キリコ「通りの神秘と憂鬱」