おとなのけんか



 (結末に触れています)
 子供のけんかの後始末のためにお洒落なアパルトメントに集まった二組の夫婦。最初は理性的な雰囲気の話し合いだったが、徐々にエスカレートして険悪な雰囲気になり、子供の喧嘩より醜悪な「大人げない」罵りあいに変貌していく。


 非常に演劇的な映画だと思ったら、舞台の映画化だそうだ。原作はヤスミナ・レザによる戯曲『大人は、かく戦えり』。日本では大竹しのぶ段田安則秋山菜津子高橋克実で2011年に舞台化されている。映画版は、ジョディ・フォスターケイト・ウィンスレットクリストフ・ヴァルツジョン・C・ライリーと、オスカー受賞&ノミネート経験のある芸達者がずらり。監督は「ゴーストライター」のロマン・ポランスキー


 冒頭とラストだけ、子供が公園で遊んでいる様子が遠景から描かれるが、それ以外はアパルトメントとエレベーターホールのみが舞台。時間の省略はなく、映画の中の経過時間がそのまま映画の上映時間となる。登場人物の変化を連続した時間のなかで見せる。つまり演劇の手法をそのまま映画に持ちこんだスタイルと言える。ならばカット割もなくしてしまって、できる限り1カットで撮ればいいのではと、演劇をやる者なら誰でも思いつくが、この映画はそこまでやってはいない。


 デティールはとてもいい。たとえば、仕事の電話がひっきりなしにかかってきて、その電話に出るクリストフ・ヴァルツの応対が、他の者のイライラをつのらせていくという設定などはとても秀逸。クリストフ・ヴァルツは弁護士。電話の向こうで話されている内容が徹底的に冷徹で、隙あらばどんな方法を使っても弁護人の利益をもたらそうとずる賢く立ち回ろうとするサマが電話から漏れ聞こえてくる。おかげで、こどものけんかの解決に誠意を持って乗り出してきたようにはまったく思えない「うさん臭さ」が立ち上がり、回りの人々をイライラを増幅させる。


 またドラマの進行にともない、夫婦間で諍いがおこったり、男性2人が結託して女性2人と対抗したり、関係がクルクルと変化していく様子が演劇的にスリリングである。


 ただし、「映画」として面白いかと言われれば話が別。「けんか」と言うのは、葛藤・対立を生み出しやすいシチュエーション。演劇的には描きやすい状況である。どう展開するかが何となく最初から分かっているだけに、ことさら日常的なディテ−ルにベクトルが向かっており、ケンカのサマをリアルに生き生きと描写しているけれども、批評性や広がりに欠け、スケール感が小さい。


 映画と演劇は違う。喧嘩のサマを見せられたオイラは、何の生産性もないその不毛なやりとりの向こうに、作者のシニカルさが垣間見える後味のよくないつくりに、オイラのシニカルさも誘発されてしまった。「身もふたもありませんが、それで?」という感じなのである。


 要は批評性が必要なのだと思う。もっとも、4人の関係が国際関係の縮図に見えるという好意的な批評がいくつかあったが、ここまで言ってしまうと少々深読みのしすぎだろう。そう読ませるには、日常性のデティールに向かったベクトルとは別の工夫が必要だと思われる。