宮沢章夫「チェーホフの戦争」青土社


チェーホフの戦争

チェーホフの戦争


 チェーホフを演劇部でやる、それを聞いたとある人から推薦された。ちょうど読み終わったばかりだったので、奇妙な符合だった。本書の内容は、意外とオーソドックス。宮沢章夫が「三人姉妹」を題材に、あくまでテキストを真面目に読み解いて、テキストに寄り添って「チェーホフ論」を書いている。それが好感の持てる点であり、同時に物足りない点でもある。


 「三人姉妹」について。宮沢章夫は「戦争の劇」であるという。「三人姉妹」に漂うのは「1848年から数年間にわたる時間と、その時代の感触であり、時代に漂う空気(217ページ)」。そうした空気こそが、この作品が書かれた1900年頃のヨーロッパの空気に重なると言う。いかにもなそうした分析が、研究者っぽく感じられ、宮沢章夫らしくない。


 ただ、ラスト、宮沢演出の「三人姉妹」を幻視するかのように、「戦争の劇」としての「三人姉妹」が立ちあがる場面は、ぐっとくる。地の文がいつのまにか、芝居の内容になっていくのは圧巻だ。それはこんな具合である。


 「音楽は響く。たしかに戯曲には、オーリガ、マーシャ、イリーナの言葉が記されているが、音楽の音量が高くて言葉は聞き取れないように読める。何か言葉を発する女たちがいる。また悲しい報せが届き、なおもまだ戦争の残忍さが伝えられたらしいが、音楽にかき消されなにがおこったのかわからない。三人の女がいる。寄り添っている。言葉を交わす。胸を張って立つ。戦争の渦中にいる。やがて軍楽隊の音は遠去かる。「それがわかったら、それがわかったらね!」というオーリガの声をようやく聞くことができた。こうして「戦争の劇」は幕を下ろすが、これは決して終わることのない劇だ。軍楽隊の音はまだ聞こえる。戯曲を閉じても、あるいは劇場を出ても、その音がどこかで響いているように思わせる。二〇世紀の初頭、仄暗い予兆に苛まれてこれを書いたチェーホフという作家の鋭利な知覚がここにある(230ページ)」


 演出の匂い立つ文章。こうした濃密な仕掛けは、演出家でないとできない。刺激的である。