「死んだ男の残したものは」


谷川俊太郎をうたう

谷川俊太郎をうたう


 谷川俊太郎作詞、武満徹作曲による反戦歌。昨年の6/19、勤務校で開催されたコンサート、沢知恵さんのピアノ弾き語りでオイラは初めて聞いた。いやあ沢知恵さんという人はスゴイ。ケタ外れの表現力。音楽の力をまざまざと感じさせてくれる。見事な演奏と歌唱にすっかり魅了されて、オイラは高校生とともに文字通り「圧倒」されたのだった。


 とりあえずそれで一区切りついたはずだった。しかし、なぜかははっきり説明できないけれど「気になって仕方がない」という曲がある。オイラにとっては、この曲がまさにそれだった。
 コンサートの後、どうにも頭から離れず、ついにはCDを買って聞きこんでいくことになった。すると、コンサートの時には気付かなかったことに気付いた。そのことを少し書いてみようと思う。


死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった


 最初のパラグラフ。この詩には、繰り返す似たフレーズのなかに、戦争のむなしさと悲惨さがしたたかに織りこまれている。たとえば、最初の「死んだ男の残したもの」。遺品か何かだろうかと想像するが、そこに示されるのは「ひとりの妻とひとりの子ども」。「残した物」ではなく「残された者」。このさりげない置き換えが秀逸だと思う。悲惨なのは死んだ本人だけではない、残された者たちである、そのことを聞く者に気付かせる。
 沢さんは、プライベート感を意識した、ささやくような歌い方で曲をスタートさせた。


死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった


死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった


 二番目のパラグラフでは、女が死に「子ども」が残される。本来祝福のためにあるべき花は、しおれている。
 父母が死ねば、子どもはひとりでは生きていくことはできない。三番目のパラグラフで子どもが死の主体になるのは必然。そういう意味で、1〜3番目のパラグラフは、有機的に関連しているように書かれている。


 また3番目のパラグラフの「ねじれた脚」「乾いた涙」「思い出ひとつ残さなかった」という言葉には、とくにドキリとさせられる。戦争被害を予感させる「ねじれた脚」、深い悲しみゆえの「乾いた涙」。むなしさの表現としての「思い出ひとつ残さなかった」。なすすべもなく廃墟に茫然と立ちすくむ人々の姿が浮かび上がってくるかのようだ。繊細な言葉を周到に紡ぎ積み重ね、戦争の残酷さや悲惨さをこれほどまでに鮮烈なイメージとして浮かび上がらせた反戦歌を、私は他に知らない。


死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった


 四番目のパラグラフ。うたはプライベートな情景から、俯瞰的な視点に一気に広がる。「こわれた銃」「ゆがんだ地球」という言葉は、戦争があったことをはっきり聞く者に知らせる。荒涼たる廃墟のイメージ。また最後の繰り返されるフレーズが「残さなかった」から「残せなかった」に変わることで、残された人々の悔悟の念をも感じさせる。そこに沢さんの霊的な恍惚感を感じさせるような声がかぶっていく。


死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない


 5番目のパラグラフでは「死んだかれら」と「生きてるわたし生きてるあなた」が対比的に語られる。地の底から低く湧きあがるようなピアノの響き。死者と交感するかのような沢さんの歌唱。おまけに5番目と6番目のパラグラフは「他には何も残っていない」と何度も繰り返す。何もないのですから、生者は死者をみつめるしかありません。


 沢さんの歌が、まるで死霊の言葉のように聞こえる。死にとらわれた者よ、業の深さと愚かさを知れ、と我々に迫る声に聞こえる。告白すると、オイラは最初、コンサートで聞いたときに、この歌をとても「コワイ」と思ったのだ。今考えると、それはつまり「死者の声を感じた」からだと思う。


死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来る明日
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない


 最後のパラグラフ。「死んだ歴史」という言葉を、私は、文化的・社会的蓄積が断絶し、社会がリセットされるといったイメージに受け取った。廃墟に芽生えた一輪の花、といったイメージだろうか。沢さんの表現には、復興の「強さ」が込められているように私は感じたのだった。


 死を意識することは、実は前向きな行為でもある。死について考えることで、生きることの意味を問い直すことができる。霊的なものにとらわれていても、心の傷はいつしか癒える。私たちの生きることそのものが「輝く今日」であり、そうであるかぎり、明日は必ず来る。オイラは、このフレーズで、谷川俊太郎の「生きる」という詩のイメージを連想した。


 最初沢さんの歌を聞いたとき、これは「死者の怨念の歌」だと、私は思い込んでしまった。だから「コワイ」という気持ちが先に立った。だが、そう考えると、6番目のパラグラフの「輝く今日とまた来る明日」というフレーズが腑に落ちない。「輝く今日」は、どう考えてもプラスのイメージ。「死んだ○○が残したものは」と途中まで何度も悲惨なイメージを繰り返しながら、最後で鮮やかに前向きなイメージに反転してみせる。そうしたダイナミックさがこの詩の魅力だし、沢さんはそうした詩の本質を生かし、陰影をつけ、ドラマティックな流れを感じさせる曲調に仕上げたのだと思う。絶妙なコラボレーションに拍手である。



 沢知恵さんの歌はみつからなかったので、曲調のだいぶ違う小室等ヴァージョンで。