小池龍之介「しない生活」幻冬舎新書



 新書の内容説明にはこうある。


 「メールの返信が遅いだけで「嫌われているのでは」と不安になる。友達が褒められただけで「自分が低く評価されたのでは」と不愉快になる。人は目の前の現実に勝手に「妄想」を付け加え、自分で自分を苦しめる。この「妄想」こそが、仏道の説く「煩悩」である。煩悩にさいなまれるとき役に立つのは、立ち止まって自分の内面を見つめること。つらさから逃れようとして何か「する」のではなくて、丁寧にただ内省により心を静める「しない」生活」を、ブッダの言葉をときながらお稽古しましょう」


 そして帯にはこうだ。


 「いい人」を演じるのをやめ、嫌なことは素直に断る/ものごとは、「どちらが得か」で迷わず、さっさと決める/謝るときはよけいな言い訳を付け加えない/誉められてもよろこばない。貶されて嘆かない/ネットですぐ誰かとつながるのをやめ孤独を味わう/相手の方が間違っている証拠があっても追いつめない/他人を比べない。過去の自分とも比べない。


 筆者は僧侶である。「現在進行形の弱さや逡巡」を例にあげ、苦境に立たされていたり失敗に直面したときに、私たちがどのように行動すればよいかを本書は説く。「あらゆる苦境は、立ち止まって丁寧に見つめ、内省の光を当ててやるなら、ことごとくかけがえのない財産になる」。失敗しても言い訳せずに、弱い自分やできない自分を受け入れることが大切なのだというのである。


 しかし、実践は難しい。心の弱いオイラは、いつも煩悩にとらわれてしまう。周囲に自分の正当性を押しつけたり「認めてもらいたい」「尊重されたい」「一目置かれたい」などと思ってばかりだ。突き動かしているのは、自分の有能さや有力さを実感したい、証明したいという欲である。しかし筆者はそういう気持ちを全否定しない。自分の気持ちの中にある自己中心的な気持ちを、醒めた目で自覚することが大切だというのである。さらに筆者は、自らがおかした失敗や小心さを隠すことなく題材にしてエピソードを組み立てて見せる。それもすごいこととオイラは思う。


 筆者は言う。「困ったときほど立ち止まらずに、どんどん次の手を打とうとしがちで、つまり「する生活」にはまり、さらにせきたてられて混乱するもの。けれども困ったときこそ静かに立ち止まり、何かをつけ足そうともがいたり引き算しようとあがいたりせずに、ただただ内省することそこが、そこから最良の学びを引き出してくれる」と。現代を生きる人々の問題を、宗教という立場から的確に衝いて、我々が失いがちな視座について考えるきっかけを与えてくれる。


 「私たちの脳は「このことを、自分はもう知っている」と判断したものに対しては、情報を大胆に省略する癖を持っており、それは仏教「無知」と呼ばれる煩悩に相当します。無知の強い力のせいで、見飽きたカーテンの光は単純化され、いつも踏んでいる部屋の床の感触は省略され、いつも目にする家族の表情の変化は見過ごされるようになり、全体としてすべての世界認識が粗雑なものとなり、つまらなくなるのです」


 小鳥の声を心地よく感じ、頬をなでる風に生きている喜びを感じよう。何の変哲もない毎日の生活が、とても意義あるものに思えてくる一冊である。