永井良和「南沙織がいたころ」朝日新書


南沙織がいたころ (朝日新書)

南沙織がいたころ (朝日新書)


 この本は秀逸だ。少し前に読了したのだが、ブログに書き自分の中で一区切りつけてしまうことがもったいなくて、何度もパラパラと読み返していた。南沙織のアイドル時代(1971年〜1978年)の足跡と筆者自身を語ることで、時代背景と当時の沖縄問題を浮き彫りにしようという、自分史的性格の強い、社会学的アプローチであり、感心させられることがたくさんあった。


 そう感じたのはノスタルジィのせいかもしれない。ただ南沙織というアイドルのことは、すっかり忘れてしまっていた。オイラは1961年生まれなので(作者の永井氏より1歳若い)、南沙織がデビューした1971年は、まだ小4。歌番組に興味を持ち始めたのはもう少し後、しかもアイドルにはあまり興味がなかったので、南沙織の音楽活動に関心をもったことはなかった。しかし、この本をきっかけに改めて南沙織の歌声を聴いてみると、アイドルという枠でくくると失礼だと思わされるような、豊かな表現力に驚かされた。いやファンの人から見れば何を今さらと言われそうだが。1971・2年頃の「新三人娘」と言えば、天地真理小柳ルミ子南沙織。3人とも歌は本格派であり、歌は二の次でもよかった70年代後半から80年代にかけてのアイドル全盛期とは、一線を画していた。


優しい筆致と南沙織へのまなざし


 本書の話に戻ろう。南沙織に対する筆者のまなざしは、とても優しい。筆者は「南沙織さん」「沙織さん」と「さん付け」で呼ぶ。文体が敬体であり、内容も当時の雑誌などの「文献」を丁寧に拾い、ごく客観的かつ実証的に南沙織とその時代を活写する。熱烈なファンなりに書きたいことも多くあるだろうが、抑制の効いた筆致は、ファンとして尖ったところを感じさせない大人の雰囲気があるので、オイラのような一般読者もすんなりと本の世界に入っていける。南沙織という「現象」に寄り添い見守る優しい感じが心地よく、オイラは新書を何度もくりかえし読んだ。


 興味をひかれた箇所は多々あったが、その中から。筆者の「あとがき」は、誠実さと決意が感じられ、実は読んで少し涙が出た。こんなくだりである。
 「・・・・きちんと書いておこうという気持ちを強くしたのは、沙織さんのインタビュー記事を読んだからです。・・・・2010年7月の朝日新聞のあと、企画を考えました。2011年1月に、共同通信のインタビュー記事が出るにいたって、たいそうに言えば、先延ばしにしてはいけないと思いました。沙織さんが語ったことを、だれかが受けとめなくてはならないと、がらにもなく使命感をいだいたのです。新聞社や通信社の記者さんたちは、沙織さんへの直接の取材をもとに記事を書いています。ならば、私は、ファンのひとりとして、ファンとして知り得たこと、考えたことを通じて書くことができるだろうと思いました。・・・・打ち合わせを予定していたころに東日本大震災が起こり、福島第一原発の事故がつづきました。そんな状況で、歌謡界の回顧本を出してもらえるのだろうか、との思いもよぎりましたが、じっさいには、書く意志がかたまりました。この社会の、いや、都会暮らしの豊かさ、便利さ、快適さは、いったい何を犠牲にしているのか。それを、毎日のように考えざるをえなかったからです(247ページ)」


 2010年7月の朝日新聞のメッセージとは、ずばり普天間問題である。


 http://www.cynthiastreet.com/dengon/den1007.html
 「引退から32年。有名写真家の妻として何不自由ない生活を送っている南さんが取材に応じた理由は、はっきりしていました。「言いたいことは一つです。沖縄の海を守って欲しい。基地はなくすべきですが、代わりに海を埋め立てたら取り返しがつかない」(2010年7月17日付朝日新聞インタビュー「戦争の隣で育った少女 南沙織「17才」)」


 この本は、単なる回顧本の範疇を越えて、40年前の南沙織の「意志」と、現在の南沙織の「意志」を邂逅させる。1972年、南沙織は、人気絶頂の頃「学校に行けないから」という理由で引退宣言をした(後に撤回)(普通の女の子でいたい」という言葉は、キャンディーズが引退時に「普通の女の子に戻りたい」と言って有名になったが、もとは南沙織の言葉である)。また、彼女はアイドル時代にはこんなふうにも言った。「レコードの売上など気にせず、いい歌をじっくりと歌っていきたい」「私はタレント歌手と呼ばれているけど、タレントという字をとっちゃって、《歌手》になりたい」


南沙織の強い意志を奥ゆかしさで包んだ好著


 南沙織はアイドルになりたくなかった。求められたイメージにあわせて生きることを潔しとしなかった。アイドルという華やかさの陰に、犠牲にせざるをえない大切なものこそを、大切なものと思える自分に対する率直さを持っていた。そんな生来の意志の強さと、沖縄に生まれた自らのアイデンティティへの言及の変遷を、この本は我々に示してくれる。その延長線上に「海を埋め立てたら取り返しがつかない」という言葉があることに気づかせてくれる。


 しかしこの本は、普天間問題を声高に語ることはない。引退までの言及に目を奪われ(もちろん現役当時の南沙織の記述も秀逸である)、問題意識の希薄な人には、最終章の記述はさらりと読みとばされてしまうかもしれない。南沙織の発言を受けてどう感じるかは、読者側にゆだねられている。その奥ゆかしさがあるから、オイラはこの本が好きになったのだと思う。「たいそうに言えば」、筆者が南沙織からのメッセージを使命感を持って受け取ったように、オイラも筆者からのメッセージを、そして南沙織からのメッセージを受け止めなければならない、と確かに感じたのだ。それは、この書が声高に主張するのではなく、心に染み入るように書かれているからだとオイラは思う。
 歌手南沙織と、作者である永井良和に、しばらく注目してみようと思う。