65年前の高校生にできたこと

■1953年11月26日付、勤務校の校内新聞の高校生の論説を紹介する。校長会の横暴を校内に知らせ、日和見的な高校生の態度を批判し、学校に生徒自治に必要以上に介入しないよう釘をさす。本来なら高校生はここまでできるのだ。それを阻止しているのは何かを考えるべきだ。

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

 論説「各校生徒会の危機に際して」

      (昭和二八年十一月二十六日付 城東高校新聞より転載)

 

 

 本校生徒大半の賛成を得た県高校生徒会連盟は遂に結成されなかった。県高校校長会の反対にあったのである。連盟結成準備の最初の会合に出席したのが十三校、第二回目が十二校、その直後校長会議が開かれ校長会は連盟結成に賛成しないことが決定された。はたして第三回の会合に出席したのは本校と他一校。ここにおいて連盟結成運動は立ち消えとなったのである。第三回会合に欠席し各校生徒会の代表者は、それぞれの学校で出席を禁じられたようである。

 

 十日付の大阪の夕刊K紙の社会面には『八日から京都同志社大学で行われている全日本学園復興会議で和歌山県新宮高校の井上君が次のように訴えた。去る七月十四日田辺市へ講演に来ていた同志社大岡本教授に同校前生徒会委員長千葉君が同校で行われる“平和展”に講演を依頼したところ同教授は快諾したがその時千葉君はつい『校長の承認を得た』といってしまった。そのことが校長の耳に入り講演会は禁止された。二ケ月後の九月十四日職員会議の名で千葉君に無期停学が言渡された。あまりのことに井上君ら四名が校長に抗議し、2回にわたって抗議集会を開いたところ同月廿九日今度はこれら四人が無期停学になった。その上学校新聞の写真班として校長室に入った新聞部員や代議員会議長、副議長、抗議大会で学校側を非難した者等七名が戒告処分を受けた。また新聞部は解散させられ、一切の生徒会活動は停止されている。九日現在で千葉君は処分されてから六十五日目、他の4名は四十一日目となっており、五名のうち三名は三年でいずれも進学の希望があるが出席日数不足で単位が取れず、卒業さえ難かしい状態である』と報道されている。

 

 これらの事実は生徒会に対する学校の圧力がだんだん強くなりつつあることを意味するのではなかろうか。幸いにして本校では生徒会連盟の準備会合への出席は禁じられはしなかったし、生徒会役員が処分を受けたということも聞かない。しかし他校のことだからといって対岸の火災視できない。本校生徒会長速水君の言によると本年三月の授業料値上げ反対運動の場合も役員は校長室で説得を受けた。

 

 役員改選も近づきつつある現在、我々は生徒会に対する認識を新たにしなければならない。代議員会での議員の発言が少ないのも責任はそれ等の議員を選んだ各ホームになる。代議員会をいつもサボる者や、一言の発言もせずただ沈黙を守る者でも、学業の成績がよいからといって代議員に選ぶことがまちがっているのである。ろくに発言もせずにおいて会が終わってからとやかくさわぐ代議員がいかに多い事か。

 

 昨年岡本会長の時代より本校生徒会活動は活発である。しかし生徒会連盟の挫折以来そろそろおとろえだしたように思われる。ここで低調におちいっては一大事、学校側の権力が強くなっては生徒会も有名無実の機関になってしまう。生徒諸君に注意を促すと共に、学校側に生徒会に対する理解を深め他校をマネて生徒会に圧力を加えるようなことをしないように要望したい。(担当=○○)