三木清に叱られる -読書のススメ-

 皆さん、こんにちは。

 賢明な皆さんですから「読書が役に立つ」ことぐらい、もうすでに知っていることでしょう。勉強に部活動に忙しくて読めないヨ、自由な時間がないヨという人もいるでしょう。そういう人に対して、一介の教師が、読書のススメを手垢のついた言葉で語っても、きっと響かない、そう考えると、私には語る言葉が出てきません。

 ならば、とくべつな人の言葉を引用しようと思います。三木清(1897-1945)。聞いたことがありますか。彼は戦前戦中に活動した「哲学者」です。多くの人が当たり前だと思って見過ごしてしまう事柄のなかに、キラリ光る意味や価値を見出す、そんな仕事をした人でした。「人生論ノート」という著作が有名で、国語の教科書に載っていたこともありました。

 三木清は「如何に読書すべきか」というエッセイの中で、読書の目的について、こう言っています。「一面的な人間」にならないために読書するのだ、と。

 私たちは、効率優先の競争社会に生きています。大学受験もそうです。奇しくも一九三〇年代後半にも同じような現実がありました。三木清は言います。(よければ声に出して読んでみて下さい)「彼等の自然の、青年らしい好奇心も、懐疑心も、理想主義的熱情も、彼等の前に控えてゐる大学の入学試験に対する配慮によって抑制されてゐるのみでなく、一層根本的には学校の教育方針そのものによって圧殺されている」(注1)まるで現代の高校生を見て書いたかのような文章ですが、これは、八十年前の学生について書かれたものなのです。 

 昔の大学受験でも今と同じく、あらかじめ整理された知識を、効率よく吸収していくことが求められました。主体性や批判力の育成は、むしろ邪魔なものとされました。戦争の足音が近づいてくる時代にもかかわらず、いや戦争が近づいてくる時代だからこそ、学生は社会の矛盾に関心を払わなくなり、ただ目先の点数に一喜一憂する状況に陥っていることを三木清は嘆いたのです。

 物事を単純化して、深く物事を考えない人が増えています。「テストの点がよければいい」というのは、一面から見た物の見方にすぎません。物事を深く根本のところから、多面的に見て考えないと、ほんとうの現実をとらえることはできません。大学受験について言えば、いま私たちが直面している、偏差値によって序列化され選別されるシステムこそを疑うところから、私たちは考えて、どう生きるべきか葛藤しなければならないのだと思います。

 試験の正解はひとつですが、現実は多面的で複雑です。いろいろな本を読むことで、私たちは、さまざまな考え方や価値に触れることができます。読書は世界を多面的に読み解くための力と知識をあなたに与えてくれる、三木清が言いたかったことはそういうことだ、などと言うと、向こう側にいる三木清に「単純化するな」と叱られると思いますが、とりあえずそんなことを考えている新年度です。

    (注1)三木清「学生の知能低下について」1938 より

 

※2019年度、勤務校の学校図書館の校内啓発紙「Library News」に、高校生向けとして寄稿したもの。