元号が変わる前に書き残しておきたいこと

■教師生活30余年。届や願を出す時には、元号を消して西暦で記入するスタイルで通してきた。公文書の元号使用には法的根拠がないにもかかわらず、用紙に元号が予め記されていることが、思想信条の自由への無言の圧迫だと感じて、それに抵抗してきたのだ。

 

■西暦使用で通しても、学校では大きな軋轢はなかった。元号の法的根拠となる元号法に関しては、その使用を国民に義務付けるものではないとの政府答弁があり、法制定後も、多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されてきた。ところが、ペーパーレス時代になって、PC画面のフォーマットには、あらかじめ元号のみが記されていることが多くなった。PC画面の元号は消せない。仕方なく元号のままで願や届を出すことが多くなった。便利になる代償に、わずかな抵抗の箇所さえ明け渡さざるをえなくなった。

 

■ネット検索すると「公文書日付が元号なのは、701年の大宝令に拠っている」と書かれている。当時は十干十二支による紀年法も使われていたが、あえて元号にしたのは、天皇制と官僚制を基盤とする中央集権国家の基盤固めに利用する意図があった、とのこと。元号は、何度も政治的かけひきに利用されてきた歴史がある。こちらのページによくまとめられている。https://www.excite.co.jp/news/article/Bizjournal_mixi201903_post-14835/

 

■オイラが元号使用を避けるきっかけになったのは、同和教育の係を長年やってきたからだった。人権教育が同和教育と言われていた2001年度以前、同和教育の担当者には、元号を使わない人が多かった。同和問題天皇制が裏表になって、部落差別を温存するシステムになっていることを、問題を解決する側が見抜いていたのだ。とくに部落解放同盟が、天皇制のシンボルである元号や日の丸を嫌った。だから元号をあえて使わなかった。オイラもその一人だった。だが国旗国歌が法制化され、部落解放同盟組織力が衰弱していく過程で、天皇制に対するストレートな違和感に依拠して元号を回避する人は、少なくなった。頑固なオイラは天然記念物のような存在だったのだと思う。

 

 ■4月1日に新元号が発表される。安倍首相の「安」の字が入るのではないか、と、いま、まことしやかに噂されている。まともな総理大臣であれば、そんなことはしないと思う。知り合いの教育公務員は、「もし「安」の字が元号に入ったら、できる限りの文書の日付を西暦表記にする」と息巻いている。元号の露骨な私物化は、国民を分断する。末代まで「愚かな総理」と揶揄されることになるのだ。