叫ぶシネコン族――独断的映画評――


 「良い」映画だから「面白い」わけではない。「面白い」映画だから、「良い」映画とは限らない。「面白かった」「あまり面白くなかった」だけでは、もやもやする僕の、8つの映画についての断章。「面白くない」映画でも、見所はたくさんある。


 1「モンスターズ・インク


モンスターズ・インク [DVD]

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 プロットは大変良くできていて、きちんと伏線が張られていて、面白くて、退屈しなかったが、僕は肝心の前提部分に違和感を覚えてしまって、素直に楽しめなかった。それはオバケが、オバケの価値観で行動せずに、人間の価値観で行動する部分である。


 「モンスターズ・インク」のオバケはとても人間的。具体的には、劇中、サリーという主人公のオバケは、「人間の」子供を愛してしまうのだが、なぜサリーが「人間の子供」をわざわざ愛するのかは、明確に描かれていない。これが納得いかぬ。


 オバケがオバケの子どもを愛してしまうのならわかりますよ。オバケの子供も出演(?)していたから、オバケにも「親子」「親子の情愛」もあるかも知れない。でも、この映画の冒頭部分、オバケの世界では、人間の子供は、放射性物質のような存在であると描写されていて、現に、オバケたちは、人間の子供をメチャメチャ怖がっていた。それなのに、なぜサリーは、放射性物質のような人間の子供をすぐに愛するようになるのか? もし、サリーが今回はじめて人間の子どもがかわいらしいということに気づいたというのなら、そのきっかけが映画の中で提示されてしかるべきだと思うが、それはどこにあるのか? 僕は気になって2回見たけど、結局よくわからなかった。


 もちろん、いくらオバケがおひとよしでバカっぽくて、放射性物質のような人間の子供を好きになっても、それに整合性があり、説得力があれば構わない。だが、オバケがさしたる葛藤もなしに、人間の子どもを愛するようになるのは、論理的に変であり、通俗的ステレオタイプではないか。ここでいう通俗的ステレオタイプとは、「ファミリー的な微温的空気や子供のかわいらしさをウリにする」ということであり、そのこと自体がいささか安直で、子供や家族主義者に「安易に」媚を売っているような感じを醸し出しているということである。それは、「子どもはかわいいもの」という世間の常識を準拠枠にした安直な展開であることにほかならない。まさにそれを「俗情との結託」というのだろう。


 オバケにはオバケの理屈があるはず。人間と違う理屈。それを描かず「人間の子供はかわいいから、オバケでも好きになる」とするのなら、それは作り手のひとりよがりではないか。そうした構成が、オバケを馬鹿にしているように見えるのである。


 ラスト近く、オバケは、子どもを怖がらせることを止め、子どもを笑わせることを始める。だが、そうなったら、オバケはすでにオバケではないと思う。子どもに媚を売るだけの存在。オバケの尊厳を奪う描写。トップを取るために、今までサリーがやってきたことは何だったの? 彼のプライドは?


 子どもの前で、「怖いー!」とか言ってふざけてみせたら、子どもはとても楽しそうに振る舞う。そういう意味では、オバケが「怖いー!」とかいうのも、同質の面白さだと思う。たしかに子どもはそれで大喜びだろう。だが、オバケを子供に奉仕するだけの存在として描いてしまっていることにより、オバケの悲しみや喜びや存在に対する畏怖が抜け落ちているように見える。


 そして、この映画のラスト、「本当に甘いラスト」と思ったのは、僕だけだろうか。


 所詮住む世界が違う人間とオバケ、親子じゃないのだから、一緒に住めるわけもない。子供を人間世界に返し、サリーは子供と別れるのだが、後日、いったん壊したはずのドアを相棒のマイクがわざわざ再生して、サリーは、なんと子供に会いにいってしまう!


 そこまでして人間の子供に会いたいかサリー! お前はオバケなんだゾ!
 「千と千尋の神隠し」のラストで、凜として絶対振り返らず、現実の世界へ帰っていった千尋と比べると、サリーの何といじましいことか。


 子離れができない親を連想させて、僕はやるせない気持ちになった。(2002.3.17)


 (付記/ちなみに、拙稿で映画の「モンスター」という呼称を、「オバケ」と記したのは、ファンシー化され商業化され流通している「モンスター」という呼称を使用することに、この作品の通俗的ステレオタイプを批判するものとして、一線を画しておきたかったためである。為念。 )


2「千と千尋の神隠し」を評価する


千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

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 「千と千尋」は、「モンスターズ・インク」とは違って、内面的で多義的な匂いがする。雑誌「映画秘宝」で「この映画は、湯屋の少女による、性的な奉仕をイメージさせる」という文意の指摘がされていた。無意識の中に潜む闇の部分を観客につきつけるという手つきから、僕が連想したのは、「不思議の国のアリス」だった。遠回しに言うと、ルイス・キャロルと同じような意味で、宮崎監督は、無意識的には極めてプライベートな部分をさらけ出すことも厭わず、この作品を作っている。宮崎の言葉をかりると「ファンタジーを作るということは普段開けない自分の脳みその蓋をひらけること」にほかならない。そうした部分こそ、僕にはとても面白い。


 戦争や奇怪な事件。混沌とした世界。そして個は社会との連続性を失ってバラバラに存在している。そうした世界では、単純化された楽天的なコトバは、リアリティを持ち得ないのだろう。そのことを踏まえたうえで、混沌とした世界をあえて多義的に表現しようと追求する姿勢こそ、宮崎監督の「誠実さ」であり、よき「成熟」にほかならないと僕は思っている。(2003.5.18)


3人間くさい「馬」の映画を観た。「スピリット」


スピリット スタリオン・オブ・ザ・シマロン [DVD]

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 GWの休日。話題の映画「シカゴ」を観ようと思って、1時間以上かけてシネコンまで行ったにもかかわらず、ついふらふらと、表題の映画を観てしまった。シネコンでは、客が入らない映画は、どんどん上演回が減らされる。シビアな世界。その映画は、公開間もないというのに、すでに上映は一日一回のみ。青息吐息。


 けれども、その日、僕がシネコンに着いたときに、その映画は、ジャスト上映開始時間だったのだ。ああ、これも何かの偶然か。もし僕が、今ここで観なければ、僕はこれを一生観ないのだろうなあ、そしてみんなこの映画を観ないのだろうなあ、なんて思ったら、「一期一会」とかいう言葉が胸に浮かび、なんか不憫に思えてきて、気がついたらチケットを買っていた。案の定、映画館の中には、GWの休日だというのに、カップルが一組のみ。一日3人の観客。5/5で打ち切り予定。


 これを読んでいる人は、だれも観ていないのだろう、「スピリット」は、馬が主人公の米アニメ映画。草創期のアメリカ旧西部。大自然に生きる若い牡馬が、西部を開拓する白人に翻弄されながらも、アメリカ先住民との魂の交流を深め、誇りを失わずに自由と故郷を求めて戦い生きるといった物語。とってもシンプル。


 しかし、僕は、不覚にも僕は感動してしまったのだ。


 白人たちは、牡馬を力で調教しようとするが、アメリカ先住民の青年は、馬と交流し、その魂を尊重する。生じる尊敬と友情。親密になるプロセスと別れが胸にしみる。白人の敵役が、一方的な悪人として描かれてないのがいい。
 しかし、同時に違和感を覚える。盛られている「恋や勇気や故郷への思い」は、馬のものではない。馬の感情やふるまいを、擬人化して初めてそこに現れるものだ。極めて人間らしい観念を語るのは「馬」。


 いや、擬人化されたテーマを動物に仮託すること自体を、不自然であるというつもりはないのだ。動物を擬人化した映画や演劇はゴマンとあるではないか。オバケを擬人化した「モンスターズ・インク」という作品もあった。


 問題は、表現の統一性にあると思う。この映画、絵は精密で、馬たちはリアルに描かれる。リアルな馬だから、「言葉」を喋らない。リアリズムに基づいた演出。監督も「喋らせたら何にもならない。馬は話すはずないのだから」と述べている。しかし、なぜか馬の感情表現だけは、変に人間臭く誇張されているのだ。


 最大の問題は、馬同士のシーンだ。互いにコミュニケーションする馬たちは、まるで「人間」のようだ。表情が漫画的に誇張され、下手なパントマイムのように見える。(馬同士でいるのだから、誰に気がねなく馬としてふるまえばいいではないか)思わず観ている側がツッコミを入れたくなる違和感。人間の表情を持つ「馬」。それは、従来のカートゥーンの類型的な表現にすぎない。なぜ、リアルに馬を描きながら、こんな類型的な表現を接合してしまったのか。こんなことなら、アニメにせずに、実写で撮った方がよかったのではないか。ちょうどあの「ベイブ」のように。


 それとあとひとつ。「馬同士が交流している場面」で感じた違和感は、「人間と馬が交流している場面」では、さほど強く感じられないのだった。擬人化された馬に違和感を覚えない「人間」を登場させることによって、観客の「擬人化」に対する違和感が緩和される。登場人物のふるまいを通して、無意識のうちに観客(ワタシ)が、「この映画をどうみたらいいのか」というドラマのなかの「約束ごと」を学ばされている。そのことを自覚させられた作品だった。


 ドラマについて考えることは、何だかとても奥が深い。(2003.5.4)


4存在感が否応なく立ち上がる「WATARIDORI」


WATARIDORI [DVD]

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 ついでに動物映画を見た。「WATARIDORI」、渡り鳥の飛行を延々と映したドキュメンタリー的な映画。世界中をロケし、熱帯から寒帯までの渡り鳥の生態をカメラにとらえている。


 と言っても、「刷り込み」によって、鳥はジャイロコプターの音を追うように調教されているので、正確にはドキュメンタリーではない。(アカデミー賞ドキュメンタリー映画部門にはノミネートされていたようだが)きちんと演出されているだけに、なかなかいい絵がたくさん撮れていて、見ごたえがあったことは確か。


 この映画、ちょっとした演出はあるが、基本的に渡り鳥が飛んでいるところを延々と映しているだけなので、ドラマはない。ただ、鳥が飛ぶ姿を観るだけ。(寝ている観客もみかけました)


 1時間40分も、鳥が飛ぶ姿を観ていると、いろいろな発見があった。


 まず、鳥は気持ち良さそうに飛ばないということ。本能にしたがって、必死で羽根を動かしながら飛ぶ。首もすわっていない。飛びながら、ガーガーとやかましい。あとは羽根音。あまりロマンティックではないだろう。映画の中の鳥は、いつもびくびくして、障害があっても逃げるだけで、なかなか大変そうである。「現代人の癒しの映画」と聞いて観に行ったが、観てる方も、何だかつられてびくびくしてしまって、それどころではないという感じだ。


 しかし、余計な意味づけやストーリーがないために、そこに「鳥が鳥としていること」が、観ていて強く感じられる。鳥たちの存在感が、強烈に伝わってくる映画である。


 「WATARIDORI」を観たあと、アニメ映画「スピリット」を思い出した。「スピリット」には、最初のシーンに、ワシ(タカ?)が飛ぶシーンがあるのだが、実写の鳥と比べると、飛び方が意志的で、メリハリがついているのが(あ、違う)とか思ってしまった。本当の鳥は、もっと何も考えずに、ぽっかりとした頭で飛んでいる感じ。


対象の存在感について、そして対象を「観察する」ということについて、否応なく意識させられた映画だった。(2003.5.8)


5志と映画的感興「KT」


KT [DVD]

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 「KT」は、1970年代はじめに日本で起こった、後に韓国の大統領になる金大中氏の拉致事件の真相に迫るフィクション。センセーショナルな題材に、「JFK」ばりに、自衛隊の関与やKCIAの内情など、我々の及びもつかなかった歴史の裏側の新事実がちりばめられて、見ごたえのある重厚なドラマに仕上がっている。


でも、面白くなかった。なぜかというと、登場人物に感情移入ができない。感情移入するのなら、自衛官役の佐藤浩市に対してだろうが、この人物が、どうして金大中「暗殺」に肩入れしていくのかが、よく分からない。「これは俺の戦争なんだよ!」とかいう佐藤浩市のセリフがあるが、ぼんやり観ていた小生、はずかしながら「えっ、戦争してるつもりだったの?」てな感じ。そのセリフで「戦争しているつもりの佐藤浩市の心境」が分かったのなら、僕は「説明」として「戦争している佐藤浩市」を理解したことになる。


 自衛官でありながらそのことに誇りを持てず、やがて自衛隊や祖国に絶望し、三島由紀夫の蜂起に感化されて、社会を変えるために義をもって金大中を殺る、というのが動機なのだろうが、それは今考えた結果推測した佐藤浩市の心の動きであって、観てる最中に、そこまで多くの観客は分かるのだろうか? そうした動機は、いささか観念的で書き割りではないか。人は、イデオロギーだけで「戦争」をするだろうか?


 なりゆきで金大中ボディガードをすることになる人のいい筒井道隆とか、なまじ脇のエピソードに魅力的で人間味あふれるキャラクターが配置されているために、主人公の心の空洞が、余計目立ってしまう。


 感情移入できない理由がもうひとつある。このドラマ、いろいろな視点から、平行して語られる。CIAの視点・金大中の視点・自衛隊員の視点・新聞記者の視点・・・・・事件が俯瞰でとらえられ、事件の全貌が明らかにされていく。客観的に状況を観客は理解できていく仕掛けだ。たしかに何が起こっているのかはよくわかる。でも、僕は、事件のことを知りたくて映画を観ているのではないのである。事実を知りたいのなら、原作本を読めばいい。いろいろな資料を漁ればいい。


 僕は、映画的な感興が欲しいのだ。


 「KT」が、映画的な感興を引き起こす装置になりえているかといえば、残念ながら疑問。複数の視点ゆえに、短い時間で状況を観客に把握させるため、あちらこちらに説明的セリフや説明的描写。まさに状況説明。


 だが、イデオロギッシュになりそうな内容と、きちんと格闘しているようには見える。よって好感のもてる脚本であることは確か。「突入せよ! あさま山荘事件」が、イデオロギーとの格闘を避け、エンターテインメントを標榜していながら、かえって「たちの悪い浅薄なイデオロギー」にからめとられているのと比べると、爽やかな作品ではあると思う。
(2002.5.24)


6ヨメさんがきれいすぎるぞ!「突入せよ! あさま山荘事件


突入せよ!「あさま山荘」事件 [DVD]

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コンピュータで原稿を書くと、いやになる。ちょっとしたことで、書いた原稿を消してしまったり、フリーズさせてしまったり。以下の原稿も、途中まで書いてたのだが、2時間分ぐらいの原稿をいったん消失してしまって、茫然自失・・・・。気を取り直して、もう一回書くことにしよう。


 「突入せよ!「あさま山荘」事件」を見た。1970年代はじめに起こった、あさま山荘事件の警察側の対応を描いた原田真人の作品。この作品、山荘に立てこもった過激派側の動きはまったく描かれていない。警察内部の確執や相克を描くことに主眼がおかれている。その中で描かれているのは、愚鈍で縄張り意識の強い警察の面々の右往左往。


 まず褒めておくと、この作品、面白い。キネ旬1357号の編集後記の言葉を借りると、「組織に属している人なら自分の周囲とダブらせてしまう人間ドラマ」を、「見事な語り口と圧倒的迫力のアクションで描く」


 生活感のある描写は、とてもリアリティがある。役所広司は、飄々としていて、官僚らしからぬ人間味あふれる人物として描かれており、長野県警の面々も、誇張されながらも、映画的リアリティが感じられて秀逸。ドキュメンタリータッチの展開からは、異様な迫力が感じられ、特に後半、突入場面は、映画的興奮に満ち、迫力満点だ。


 でも、僕には、この作品、とてもウサン臭く映った。


 先に引用したキネ旬の言葉で言うと、前半分「組織に属している人なら自分の周囲とダブらせてしまう人間ドラマ」という点で、この作品、僕は納得いかなかった。


 少なくとも、役所広司扮するところの「佐々淳行」には、僕は感情移入できまシェン。


「佐々」は、警視庁のエリート。権力を行使できる、一握りの恵まれた立場の人間。おまけに、原作は彼の書いたもの。彼を格好良く描けば描くほど、そして対立する人々を情ケナク描けば描くほど、面白ければ面白いほど、映画の大枠の「客観性」が失われ、ウサン臭く見えてくる。


 もちろん、真に「客観的」なドラマなどありえない。すべてのドラマは、「主観的」なものだ。問題は、アプローチの方法だと思う。特に、この作品のように、実際の事件をモデルにして作品を作る場合、取り扱う内容に対して、観客が前もっていろいろなイメージを持っていることが考えられる。あさま山荘事件のような、イデオロギッシュな内容を含んでいる場合は、なおさらだ。そうした観客に作品を発信する場合、主観が独善にならないように、周到に企まねばならぬ。


 立てこもっている過激派側の描写を切り捨てただけなら、それほどウサン臭さを感じなかっただろう。(三谷幸喜なら、警察側を(佐々をも含めて)、もっともっと徹底的に戯画化して描くかもしれない)問題は、権力側の主人公を単純に肯定する作り手の姿勢だ。


 そして、小人の僕には、どうしても許せない場面がある。


 映画のラスト、事件が終わって、「佐々」は自宅に帰ってくる。彼には、天海祐希扮するきれいな奥さんがいる。家を守る妻は、彼の緊張をほぐしてやる。ほっとする「佐々」。旧態依然とした保守的な夫婦の姿。僕は、声を大にして言いたいね。「何だそれ!」


 1970年代だから、そうした家庭の様子が描かれることは、当たり前かも知れない。でも、見てる方は、21世紀の人間なのである。当たり前のようにそんな姿を見せられると、違和感を感じるのである。(ヨメさんが奇麗すぎるぞ!)と思うのである。(僕のルサンチマンもここには入っている。ああ、自覚しているさ)旧態依然とした夫婦関係を美化しすぎじゃない?そうしたアナクロチックな場面に救いを持たせる映画の演出センスこそ、イデオロギッシュと言わずして、何をイデオロギッシュと言おう。


 小泉首相は、この映画を見て「はやり危機管理は大事だねえ」と言ったとか。ホントに、この映画はエンタテインメントなのか?


 確信犯デショ、原田真人チェンセイ。(2002.5.29)



7正しいが響かない「バトル・ロワイヤル?」 


バトル・ロワイアル II 鎮魂歌(レクイエム) 通常版 [DVD]

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 「突入せよ! あさま山荘事件」は、多数派の側を権力側の立場から描くが、対照的に、「バトル・ロワイヤル?」は、テロリストの側から少数側の葛藤を描く。僕は、心情的に、「バトル・ロワイヤル?」の方の描き方の方が好きだと思うし、まともだと思う。


 しかし、しかしである。


 今回は、仲間同士の殺し合いよりも、前回生き延びテロリストと化した七原秋也を殺すために、中学生が駆り出される、という展開、だから前半で、クラスメートの大部分は見せ場もなく、次々と死んでいく。無為な累々たる死が延々と描かれるのは、戦争だから当然と言えば当然だが、前作にあった少年少女の相互信頼と不信、そして生きることの意味を問い直すプロセスは見事に、ない。前作は、そうした十代の心の揺れと成長がきちんと描かれていたから、青春映画としても傑作だったと思う。


 代わりに今回は、テロリストと化した七原秋也の「正義と悪の間で揺れる葛藤」が描かれる。しかし、大きなテーマを具体的に描くには、七原秋也のドラマは脆弱すぎるように思う。観念的なまま空虚に言葉を紡ぐだけのうすっぺらな葛藤は、観客たる僕の心には響かない。


 前作では、中学生たちは、「身体を通して」生きることを実感した。ストレートに彼らは学んだ。しかし、今回の七原は、迷っている。彼は悩み衰弱し、まるで「地獄の黙示録」のカーツ大佐のように見える。ところが、ラストは、とってつけたような楽天的な幕切れ。どうにも僕は居心地が悪い。死に際の竹内力のすがすがしい顔も「なんだそれ」って感じだ。


 僕は、七原秋也には、冥府魔道に生きてほしいと思う。この映画には、後味のいい幕切れなどふさわしくない。そして空疎なアメリカ批判なども要らない。僕らは、すでに「バトル・ロワイアル」の世界に生き、「勝ち組」と「負け組」に分けられ、殺しあわされているのだ。ルールがメチャクチャな、ほとんど不条理な世界の中で。僕らは、現実に、すでに心を固く閉ざして、戦っているのだから。ちょうど、劇中で死んでいったキタノシオリのように。(2003.7.5)


8そして「めぐりあう時間たち」にめぐりあった 


めぐりあう時間たち [DVD]

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 アカデミー賞8部門にノミネートと聞いた時から「どんな作品だろう」と思っていた。期待にたがわず、とてもとてもスリリングで面白い2時間だった。映画「めぐりあう時間たち」は、類例のない作品である。何回でも観たい。演劇部関係者必見。


 まず構成が面白い。80年の時と場所を隔てた、女性の生き方をめぐる三つのエピソード、それらが、独立したエピソードとしてではなく、フラッシュバック的に語られていく。時代も場所も接点がないのだから、普通考えると3つのエピソードは結びつくわけもないと観客は思いがちだが、予想は覆される。3つのエピソードは、有機的にからまりあい、ラストでは、意外な関連性が明らかになる。大胆でアクロバティックな構成。モンタージュの奇跡。


 全体を貫く主旋律は、1920年代のヴァージニア・ウルフのエピソードである。精神を病み、自殺願望を抱えるヴァージニアが、自己を投影させながら「ダロウェイ夫人」という作品を書く。出版された小説「ダロウェイ夫人」を、他の時代のエピソードの女性が読むことによって、彼女たちの行動に影響を与えていく。ヴァージニア・ウルフが「登場人物の誰かを殺そうと思う」というと、次のシーンでは、別のエピソードの登場人物が、自殺をはかろうとするという、一見メタフィクション風の場面も見られる。


 場面は意図的に複雑に組み合わされ、必要以上の説明はなされない。これは、パターン化された解釈を観客に押し付けないための、周到な作者の企みに思える。観客が100人いたとすれば、100通りの解釈も可能だ。


 こうした仕掛けに、受け身の観客は、「難解だ」という印象を持つかも知れない。だが映画を見て考えることを厭わない観客なら、この難解さこそ豊饒であると受け取ることもできるだろう。解釈の豊饒。こうした、故意に説明を省略することで、作品に奥行きをあたえようとする手法は、日本の関西小劇場系の作家の手つきとも似て、僕はちょうど松田正隆や岩崎正裕の作品を想起した。


 そして、この映画の最大の見せ場は「演技」である。名女優の演技(少々大芝居だが)を、カメラは凝視する。アップを多用し、ちょっとした仕草や表情の変化までフィルムに刻み付ける。そして、カメラは、セリフを言い終る瞬間に切り替えられ、反応する側のリアクションを必ず丁寧に写し取る。


 状況を限りなく演劇そのものに近づけた場面もある。それは、駅のプラットフォームの場面だ。舞台を連想させる横長のプラットフォームを、カメラは珍しく「引き」で長めに撮る。役者は、舞台を移動するかのように移動する。プラットフォームの残響も、まるで舞台のようだ。この場面を見たとき、僕は了解した。(あ、この作者の狙いは演劇だ)と。


 僕は、映画も「演劇的であるかどうか」を評価の基準にしてしまう人なので、何だかすっかり嬉しくなってしまった。演技のリアリティは、作品そのもののリアリティを補ってあまりある。2003年上半期最大の収穫。(2003.7.4)

 (以上の文章は、2003年7月18日発行の勤務高校の文芸部誌に寄稿したものである。日付は初出時の日付である)