浜野保樹「模倣される日本−映画、アニメから料理、ファッションまで」



       祥伝社新書 ¥740+税



「欧米に影響を与えた日本」の姿が概観できる。


 「Shall we dance?」を見たので、関連して本書を。


 本書には執筆意図を書いた部分がなく、全体的に羅列的な書き方に終始する。したがって「ここは日本のこういう作品からの影響だ」という記述を個々の情報として受け取らざるをえない。

 その点、映画について書かれた第1章「模倣される映像」は既知の情報も多かったが、それなりに面白かった。石原慎太郎が脚本を書き、裕次郎が初主演し、中平康が監督した「狂った果実」(1956)が、パリのシネマテークで上映された。その表現手法に影響を受けたジャン=リュック・ゴダールは「勝手にしやがれ」を撮り、そこからヌーヴェルバーグの一端が始まったというエピソードや、1957年に公開された「サヨナラ」のナンシー梅木がアジア人として初めて(アメリカ人とイギリス人以外ではじめて)アカデミー助演女優賞を得たというエピソードなどは、若い人なら、よほど映画のことに詳しい人でないかぎり知らないだろう。ちなみに1957年のアカデミー作品賞を得たのは、デヴィッド・リーンの「戦場にかける橋」であり、この作品で日本人将校を演じた早川雪洲も、アカデミー助演男優賞にノミネートされていた。

 こんな感じで「欧米で評価される日本」や「欧米に影響を与えた日本」といった内容の記述が続く。ただし、最初に述べたように、エピソードのひとつひとつはそれなりに面白いが、全体としての趣旨が読み取りにくいのが玉にキズであろう。


なぜ「欧米」と「日本」のことばかり取り上げられているのか。


 また、記述の内容が欧米での日本の影響に偏っていることが気になった。東南アジアをはじめ、日本の文化が浸透し模倣されている例は数限りなくあると思うが、本書で触れられているのは、映画「love letter」などほんの少しで、これとて欧米との反応の違いについて書かれてあるに過ぎない。これは意図的なものか、と思って読んでみたが、そのあたりがよく分からないのである。


 以下引用。




 長く外国の模倣で済ませてきた日本は、自らの評価軸を持っていない。いつでも外国から評価されるのを待つばかりだ。そして評価軸というのは恣意的なもので、思惑が隠れている場合が多い。F1レースで日本の車が常勝するようになったとき、幾度となく日本の車が不利になるように規定の変更が繰り返された。スポーツでも似たようなことが多い。評価とはそういうもので、評価されている以上は、何をされてもいたしかたない。

 様々な格付けが欧米、特にアメリカで発表される度に、関係者は一喜一憂する。しかし、評価の妥当性に疑念が残り、時には悪意さえ感じることがある。無視していれはいいとはいうものの、その評価軸が「グローバル・スタンダード」だといって振り回されると、日本のマスコミも後追いをせざるを得なくなり、意図的に貶めたり、都合のいいスターを作り上げたりする。

 同じ評価軸を持っても仕方がない。それこそ模倣になる。そうではなく、われわれが生きてきた伝統や歴史にふさわしい評価軸を持ち、それで共感を得るようにしなければならない。

 ・・・・(中略)・・・・そしてそれらの考えを強制しないこと。評価軸を押し付けてはいけないとブランドのロゴのようにこれみよがしに主張することは難しい。主張すること自体が押し付けになるからだ。相矛盾するようだが、価値の拡張主義をとらず、多様性を認めるという考えを自然に拡張することこそ、われわれができることではないかと思う。そういったことこそが、模倣されるべきだと思う。いってみればグローバル・スタンダードの対抗文化であり、共感の戦略なのだ。(238ページ)

 

 欧米と「同じ評価軸を持っても仕方がない」そして「多様性を認めるという考えを自然に拡張すること」が大切だと浜野は述べているが、それこそ現在進むグローバリセーションや多文化主義の考え方にほかならない。そうした考え方をもって「共感の戦略」とし、積極的に利用しようとするなら、なぜ「欧米VS日本」に本書がこだわるのか。なぜ「欧米の方ばかり向いていた」従来からの狭い世界のとらえ方によって、この書は現在の日本文化の浸透をとらえようとするのか。

 グローバリセーション的な視点でいうと、日本の文化だけがアメリカやヨーロッパによって模倣されているのではなく、韓国や中国、香港やシンガポールをはじめ、あらゆる地域の文化が世界に紹介され、それらの優れた文化に対するフォロワーがいたるところに出現しているのである。ハリウッドがリメイクしているのは、何も日本の作品だけではない。ハリウッドへの影響という点では、日本映画よりも香港映画の方が明らかに上だろう。そうした状況を踏まえたうえで文化状況を語らないと、本書でいうところの「文化戦略」なるものの具体性は見えてこないのではないか。


 また、なぜ「映像による模倣」を筆者が好んでとりあげたのか。「文学」についてはなぜほとんど触れられていないのか。「映像の模倣」をあえて取り上げることには意味があったのか。そうしたことをもう少し書いてほしかったと思う。