「アルテ・ポーヴェラ/貧しい芸術」豊田市美術館




あえてゴミ的に見せる「芸術」


 訪れたのは4月中旬、愛知万博に行ったときに寄った。(ちなみにぴあの愛知万博の周辺観光ガイドには、豊田市美術館は載っていなかった。)以来、感想を書かねばと思っていたが、うまくまとまらなくて、のばしのばしにしてきた。展示は6/12まで。


 うまくまとまらなかったのは、僕が考える芸術の範疇から大きく逸脱しているゆえに、僕ごときミーハーでは全貌をとらえきれなかったのだ。言葉がみつからない。


 「アルテ・ポーヴェラ」は、イタリア語で「貧しい芸術」の意味。1960年代から1970年代にイタリアで起こった芸術運動、とのこと。いささか表層的にすぎるかもしれないが、「貧しい芸術」の名前の通り、木や石や鉄や鉛、新聞など、身近にある素材を利用して、芸術的作品を創造する運動であった。

 展示されている作品の多くが、色彩も地味で、一見どこにでもあるような素材を使い、無造作に転がされているような印象を受けた。作品の素材や鈍い色彩などから喚起される「日常」性のメッセージが色濃く、既成の芸術的視点からみると、芸術的な仕掛けを作者が企図していたとしても、やはり「ゴミ」的に見えるのだ。いや、もちろんそれは「アルテ・ポーヴェラ」の狙いなのだろう。彼らは一般的な芸術作品のめざす地平を目指さない。そこには従来の意味での芸術的特権性をあえてひんむいてやろうという意志が見えるのだった。


 一般の芸術作品は、特別な素材を用い、製作にあたって特別な技法を用いる。作品のおかれた空間はハレ的な非日常空間である。しかし、「アルテ・ポーヴェラ」の作品の多くは、「日常」の延長に存在する。「非日常」こそ「あたりまえ」の芸術のなかにあって、「アルテ・ポーヴェラ」は特異である。


権威に対するカウンターパンチ


 あえて日常的な素材を使い、一見手軽な方法で多産された作品群は、権威的に祭り上げられることを最初から否定している作品群である。一般の芸術作品は、永続的に評価されることを望んで製作される。しかし「アルテ・ポーヴェラ」は、そうした永続的評価をはなから拒否しているかのように見える。石の間にレタスを挟んだだけの作品があったが、この作品などはまさにそうだろう(ジョヴァンニ・アンセルモ「無題《食む構造》」)。レタスは展示のたびにとりかえなければならない。「アルテ・ポーヴェラ」は、連続的にしかけられる芸術運動なのである。これは既成の権威的な文化に対する強烈なアンチテーゼだ。金井直の言葉を借りると、1960年代の英米主導の芸術動向に対するゲリラ戦なのだ。


 そう考えて「アルテ・ポーヴェラ」を見ると、日常的な素材の中にも、芸術的感興を呼び起こす仕掛けが確かにあり、そこに作者たちの批判的精神を持ち続ける志の高さとタフさを感じるのだ。


 今回の展示は、愛知万博に出展したイタリア館の後援を得たという。愛知万博が、戦後日本が辿ってきた権威的システムの上にできあがった夢幻城だとするなら、「アルテ・ポーヴェラ」は愛知万博やそれを生み出した日本社会に対する強烈な批判にほかならない。

 商業主義に毒され、表面的な過剰や虚飾に満ちあふれた現代の文化状況。「アルテ・ポーヴェラ」は、イタリアの繰り出した意図しない必殺カウンターパンチである。