第25回高知県高等学校演劇祭/於高知追手前高等学校芸術ホール


 5/3〜5の3日間、高知県の春の演劇祭に、講師審査員として招かれた。生徒が元気な高知の高校生の芝居を見る。バラエティ豊かな芝居がたくさんあった。以下、簡単に上演校の感想を。


1 高知追手前高 結城翼作「グッバイ・シルバー・チルドレン」


 若い看護師である青山を通じて観客は物語世界に入ることができる。言わば狂言回し。青山がそのときどきで何を感じているかは、とても重要。しっかり感じて喋ること。イメージを乗せること。
 たとえば財布を取られたと言われる場面は、もっと動揺してもいいのでは。面会に来る家族がほとんどいないことを同僚の看護婦に知らされたときの「でも、人間ですよ」「そんな」というセリフの裏に、非人間的な現場での良心の葛藤が見えるといい。また「名前を呼んで」と患者が要求する場面は、人間らしさを回復する重要シーン。青山の誠実さや必死さが伝わると物語の構造が明確になる。船長が家に帰りたいという場面では、青山の共感がもっとあれば…。船長の気持にシンクロしていくことで、観客の感情移入は促進され、彼女もまたるのだから。
 船人の妄想シーンは、セリフにイメージを。船を操る、大砲を撃つ、憎しみ、生き生きしている場面だから、お互いにリアクションをとりながら演じること。とくに船長。役者は感じることが大切。ホリの色を変えて、全体のトーンにメリハリをつけてもいい。船長以外のシルバーチルドレン3人が並んで立つシーンが多いが、定位置のように見えてしまう。もっと自由でもいいのではないか。
 白い箱を配置して、抽象的な空間を作っているのはいいが、リハビリ室的な配置にしているために、中央の連結された箱に患者を寝かせるのに違和感を覚える。ベッドは部屋の隅にある設定にするか、大部屋という設定にした方がいいのでは。あるいは、いっそ円形に並べ、ストーンヘンジという死と再生の儀式の行われていた古代遺跡のように箱を配置するのも一興。

 
2 山田高 橋口征司作「ハンバーガーショップの野望」


 ネット台本。マクドナルドによく似たそのハンバーガーショップは、うさん臭い店だった。舞台下手に接客用カウンター、上手に事務室。接客用カウンターが舞台正面を向いているので、注文する客は背後を客席の方に向けることになる。接客中の店員と客の表情が見えるように、舞台下手に向けてカウンターを配置した方がいい。いくら単純化した舞台だと言っても、ハンバーガーショップの客席と事務室の境は必要だろう。
 役者が力が入ってなくて、リラックスしているのはいいが、ふらふらと落ち着かない。身体は気持の切り替わるところで動くのが原則。正面を向いて演技をするのではなく、お互いに向かい合って演技をしないと、対話が生まれない。土下座をする場面は、店長に向かって土下座をするべきだろう。店員役の子は腕組み・髪いじりが多い。こうした動きは緊張のために発した無意識の動きであり、なくした方がいい。店長は、もっとうさんくさく。客慣れして、客は大切にという姿勢なのだが、なめた感じのうさんくささをもっているというような、二面性が出ると面白い。気弱そうな強盗は面白い。小道具はチープでもまったく構わないが、役者は本物のつもりで演技をするべし(特に銃)。小道具に魂を入れるのは、実は役者である。


3 土佐高 岡田ゆき作「Catchall」


 学校の雰囲気はよく出ている。端正でバランスのよい配置。机6個をつなげて配置したため、舞台前と奥の移動が制限されてしまうのは残念。3個・3個の塊をふたつ作るとかすればいいのでは。舞台に出されたものは全部使うつもりで。平台の前面はケコミを入れること。平台の上でドタバタすると、ガタガタ音が出るのが残念。
 動きの段取りという意味では、演出がつけられている。カツゼツも悪くない。観客にセリフの意味を伝えようという大切な意識がちゃんとある。だが、リアクションをもっと取った方がいい。セリフのない部分こそが大切。たとえば、田中くんが床に倒れているのに、回りの人たちが放置するのはどうか? 他の人々は、気絶している田中くんが気になるのではないか? 少なくとも、机の上に寝かそうとか考えるのではないか? 他の役者が喋ったら、どう感じるか、感じたことでどう動くか、もっともっと考えてほしい。
 この芝居、突っ立ったままで役者が移動せず、絵柄が変わらない。登場人物が多いと、役者だけでは動けない。演出が指示する必要がある。
 ガラクタと言われる人たちなのだからこそ、もっと自由に生き生きと。個性が狭い枠の中に押し込められている感じがしてもったいない。もっとはじけて。ネクタイなんかしなくていいんじゃないか。コスプレも、もっと楽しそうな派手なものがいいのでは。そうすれば、一人ひとりの個性が際立って、描きわけがはっきりするし、説明過剰な感じも薄れると思う。

 
4 高知小津高 明神慈作「スリヌケル」


 女たちは母親であり妻である。その温もりは記憶でありトラウマ。身体の声を聴けという医師は、男の分身と解釈することもできる。医師は品性を司る老賢人であり、一方患者の男はバランスを崩している。バランスを崩している原因は、どうやら過去の母親との関係の中にあるらしく、医師との会話の中で明らかになっていく。白衣は支配の象徴か…。
 台本がいろいろな解釈ができるように書かれていて、いろいろな演出法が考えられる、きわめて演劇的に書かれた台本だと思う。それだけに演出が重要。役者は健闘しているが、高校生レベルの役者の力だけでは作品世界を成立させることは難しい。
 たとえば、大切な小道具である砂時計。とても小さいので、観客には伝わりにくい。ならば砂の落ちる音を音響効果でおぎなってみてはどうか。それもあえて砂の音ではなく水の流れる音を追加する。誕生と死は水の循環にも例えられる。もう少し音響を追加しよう。冒頭は砂浜に打ち寄せる波の音、新しい生命の誕生を予感するラストも、波。チョロチョロ流れる「水」の音とスケールの大きな「波」の音。そうした「音」が、胎内で羊水に浮かんでいた胎児のイメージと、死んでは生まれる生命のサイクルを想起する…。
 これはほんの思いつきだが、そうした演出上の切り口と工夫で、芝居に陰影と色彩をつけていく。これも芝居作りの醍醐味である。