内田樹の研究室/大学における教育-教養とキャリア


 表題は、昨年11月、追手門大学での内田樹先生の講演の活字録。内容はこちら「内田樹の研究室/大学における教育-教養とキャリア」http://blog.tatsuru.com/2012/04/06_1508.php。詳しくはコチラを読んでいただくとして、オイラも思ったことを少々。


 内田は言う。今のメディアは横並び主義。日本の新聞は、他の新聞と違うことを書かない。これは、メディアがつねに「マジョリティに支持されるソリューションを差し出さなければならない」と思い込んでいるから。ゆえに、メディアの言説は、定型化されるのである。


 具体的にはこんな感じである。内田の文章からの引用である。
 「(たとえばメディアには)個性的な生き方をしている人たちを紹介する頁が必ずある。でもね、これが悲しいほど定型的なんです。「脱サラして妻と二人でおしゃれな山荘を経営して、こだわりの料理を出している」というようなのばかり飽きるほど見てきました。どうして定型を脱するときにも、この人たちは定型のままなんだろうと絶望的な気分になることがあります。でも、しかたがない。「これが定型からはずれた、おしゃれで個性的な生き方だ」という雑誌の特集を見て、「おお、これはいいな。オレもやろう」と真似する人が出てくるから、そういうことになる。ドロップアウトの仕方まで定型に従おうとする。ほんとうに個性的な生き方をしている人間は今のメディアには出てきません。メディアのアンテナがそういう人は探り当てられないんです。でも、ほんとうはそういう人たちのはげしく個性的な生き方を見せてあげることが若者たちにとってはいちばんの励みになるんです。「なんだ、こんなふうにしてもいいんだ」と思えると、人間はほっとする。メディアがほんとうに若者の不活動的傾向を何とかしたいと思っているなら、どうすれば若者たちがまわりを気にしておどおど怯えなくて済むように定型から解放してあげることが第一の仕事なんじゃないですか」


 高校教育も同じだと思う。定型化され常識化された社会の矛盾や問題から、高校生を解放することに教育の主眼がおかれれば、高校生は活動的になるのだろう。だが、現実の高校の教育内容はそうではない。定型化された画一的な「やらされる」教育内容のオンパレード。主に大学進学のための教育に力が注がれ、効率よくテストで点を取らせることに、追い込まれ、校内のエネルギーが集約される。そのことの矛盾や問題点には、学校内では省みられることがない。むしろ社会の不条理もアンフェアネスも「仕方がない」「適応せよ」「思考停止して受け入れろ」と高校生も教師も思いこまされ、思考停止の近視眼的な課題に教育のベクトルが向けられているのが現実である。


 創造的でない教育はつまらない。そこからは社会変革をめざす人材は生まれない。内田の言う「どうしたら学生たちの知性が活性化するか」について創意工夫を凝らし、力点を置くべき。「学生たちの目がきらきらと輝き始めるのはどういう場合か、学生たちが前のめりになって人の話を聞き、もっと知りたい、もっと議論したい、もっと推理したいというふうになるのはどういう場合か」そんな教育を考えたい。


 内田樹は、我々が知的な檻に閉じ込められていることに気づかせてくれる。高校生もまた、常識を疑い、もう少し大きな枠で物事を考え、社会的な呪縛から解放されることが必要であるとオイラは思う。これがリベラルアーツの役割である。


 ふたたび内田樹先生のテキストから引用。
 「僕は自分の目の前で、それまで停止していた学生たちの思考が、あることをきっかけに一斉に動き出し、突然自分でものを考えだし、自分の言葉で語りだし、自分のロジックを作り出していく瞬間を何度も見てきました。まるでばりばりと皮が剥がれるかのような状況を目の当たりにするのです。これは実に感動的な光景です。教師という仕事を選んでよかったと思えるのはそういうときです。
 一度脱皮し、知的なブレイクスルーを経験した学生たちは、後は自分で勉強します。学びの本質は自学自習ですから、後はもう放っておいても構わない。本を貸してくれと言われたら貸し、学会に行きたいと言われたら連れていき、会いたい人がいると言われれば紹介する。それから後の教師の仕事は「点をつなぐ」だけです。ひとたび「学びたい」という状態になった学生に対して教師がする仕事はもうそれだけで十分なんです。ですから、教師にとっての問題はどうやって「学びたい」という思いを起動させるか、それだけです」