内田樹「先生はえらい」ちくまプリマー新書


先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)


 (うまく書けずに呻吟して、先に書いた内容を消去して書き直しました。以下の文章は、仕切り直した書き直し分です)


 ブログ「内田樹の研究室」に「先生はえらい」韓国語版の序文がUPされていた。「先生はえらい」には2005年の初版時に感銘を受け、一度レビュウを書いたこともあったのだが、うまく書ききれなかったので、ずっと心にひっかかっていたのだった。7年前のレビュウを今読むと、斜に構えすぎていて照れ臭い。もっとストレートに書くべきだったと思う。


 本書のテーマは「学びとは何か」。内田は言う。学びの主体は、メッセージを受信する側。「先生のメッセージを、弟子が「教え」と思い込んで受信してしまうときに、学びは成立する。「教え」として受信されるのであれば、極端な話、そのメッセージは「あくび」や「しゃっくり」であってもかまわない。「嘘」だって構わない」(「先生はえらい」38ページ)


 「誤解」がコミュニケーションの本質であるという内田の「学び」の構造の指摘に、オイラは大いに納得したのだった。自明なものと思われていることは、自明であるがゆえに本質を問われない。教育を職業としながら、オイラは「学び」の意味を深く問うたことがなかった。本書をきっかけにして「学び」の意味を考えることができたからこそ、内田のメッセージの奥深さ、「学び」の奥深さを知ったのだった。


 学ぶということは、有用な技術や知識を教えてもらうことではない。同じことを教わったとしても、「これができれば大丈夫」と教える先生と、「学ぶことに終わりはない」と教える先生では全然違う。本書では自動車教習とF1ドライバーを例にとる。自動車教習所では、運転技術という有用な技術を教えてくれるが、教官は敬意を得られない。それは、教習所の先生が、有用な知識「のみ」を、ある一定のレベルまで教える人でしかないからだ。F1ドライバーが教官なら、平易な技術を教えても、運転技術には無限の段階があり、芸術であり創造的行為である、ということを、教わる側は「感じとる」。


 内田は言う。「私たちが敬意を抱くのは、「生徒に有用な知見を教えてくれる先生」でも「生徒の人権を尊重する先生」でも「政治的に正しい意見を言う先生」でもない」。むしろ「謎の先生」の方がふさわしい。教わる者は学ぶべきことを前もって知らないわけだから、何かを学んでしまい、何ごとかを学び得た後になってはじめて、その学習を可能にした師の偉大さを思い知る。

 
 オイラが本書から勝手にメッセージを受け取り、オイラなりに解釈したように、学ぶ者は勝手に解釈し誤解しながら学んでいく。これが教育の本質的なありかたである。本書は、受験学力という狭い意味でしか学びをとらえられない学校教育に対する批判であるとともに、現代人の価値観や常識にとらわれている「学ぶ側」の心のありようについて、鋭く批判・啓発した書であるとオイラは思う。