ソフトなファシズムと宮崎学「ヤクザに弁当売ったら犯罪か?」ちくま新書


ヤクザに弁当売ったら犯罪か? (ちくま新書)

ヤクザに弁当売ったら犯罪か? (ちくま新書)


 ソフトなファシズム、あからさまである。
 自民党公明党民主党社会保障と税の一体改革の3党合意は、大政翼賛会を思わせる。その先にあるのは憲法改正。戦争のできる国への着実なステップアップである。


 宮崎学は「ヤクザに弁当売ったら犯罪か?」(ちくま新書)で、暴力団排除条例の作られていく過程は、治安維持法改悪の過程と類似している、と指摘した。1925年に成立した治安維持法は、軍国主義の正義のもと、共産党員の弾圧からはじまり、後には穏健な自由主義者まで対象を拡大した。その治安維持法の協議罪や予防拘禁、目的遂行罪とそっくりの状況が、暴力団排除条例によって作り出されている。これもソフトなファシズムの表れと言えるのではないか。


 暴力団排除条例には多くの問題が指摘されている。条例違反かどうかの線をわざと曖昧にして、警察の裁量とすることで、助言する警察OBが企業等に天下りできる。「1個500円のホカ弁を事務所詰めの若い衆が買いに来たらどうするのか」などという馬鹿馬鹿しいことを、各商店や事業者たちはマジメに悩んでいるのが現実なのである。


 もうひとつの本書における興味深い視点は、アメリカとの関連である。「1982年の商法改正による総会屋排除も、暴対法によるヤクザ排除も、法律を考えたエリート官僚たちの背景には、日本進出を企図するアメリカなどの海外資本の意思があったと思う」と宮崎は指摘する。「金融市場に進出するにしろ、大型店舗を構えるにしろ、どこかの段階でヤクザや総会屋とかちあうことは容易に想像できた。海外資本にとってヤクザの存在は面倒でしょうがなかったはずだ。以降、この国は規制緩和新自由主義経済路線、グローバル化を突っ走り、ヤクザだけではなく、労働組合や業界団体、地域の商店会など、あらゆる中間団体が力を失い変質していった(184ページ)」


 基本的人権は、「すべての人間に」認められている。「ヤクザなら人権を制限されても仕方がない」と思っている人たちは、すすんで自分たちの人権も失っている」。「私は君の言うことには賛成しないが、君がそれを言う権利は死んでも守るつもりだ(S・G・タレンタイプ「ヴォルテールの友人」より)」という姿勢でありたい。



 なお、本書でも引用されているが、東京管理職ユニオン執行委員長の設楽清嗣による声明が心に残った。以下、少々長くなるが引用である。

暴力団排除条例」の廃止を求め、「暴対法改定」に反対する表現者の共同声明を支持します
東京管理職ユニオン執行委員長 設楽清嗣


 暴力団が悪いからといって、社会から排除するというのは、人間のあり方として許されないことです。


 私達の社会が「正義」の名のもとに、その「正義」に合わない人々を社会から排除するのであれば、その「正義」のあり方だけの社会となり、その「正義」のあり方の誤りに気付かないばかりか、その「正義」のあり方を変えることもできないこととなってしまいます。


 例えば第2次世界大戦以前の日本・ドイツにおいて横行した、あの軍国主義の「正義」。そしてそこに向かう過程で、警察権力の抑圧とその執行――治安維持法・治安警察法――「反社会的団体を規制する」と称して、警察権力がその規制の対象を拡大解釈していった陰惨な歴史を、思い起こさざるを得ません。


 今、日本の警察が暴力団に向けて振るう権力の鞭が、近い将来に市民・労働者に向けられることとなるのは、容易に想像がつきます。


 暴力団的なものは、どのような人間の社会においても少なからず生み出されてきました。それを法律で裁くこと、その裁く力を警察権力に委ねること、そのようなありかたが逆に市民社会の中に形成されるべき本当の≪人間力≫を奪い去り、≪無菌クリーンルーム≫のような社会となってしまうでしょう。


 市民間のトラブルに暴力団的なものを介在させて良いはずはありませんが、市民間トラブルに対策するためには、市民同士、人間同士がトラブル対策に強くなる力を、もっと強くしなやかに、そしてしたたかに作っていくことこそが必要なのではないでしょうか。


 市民間のトラブルをすぐ法律や警察権力に委ねていくことでは、暴力団的なものを、警察権力的なものに置き換えたにすぎません。


 暴力団的なものは、私達の社会の弱さの負の局面を象徴していると思います。そしてその暴力団やその構成員といえども、私達の社会の一員であり、私達の弱さの反映であります。


 今、日本の社会は急速に変わりつつあります。


 1915年以降、昭和初期の頃と同じような、とても危険な徴候が見えてきています。正に、警察権力の強大化への道です。


 戦後日本の企業社会・市民社会が、暴力団的なものに依存しながら大きくなってきたことの弊害を排斥するあまり、暴力団的なものに代わって警察権力的なものが横行してきました。いま、日本の各企業と業界には警察OB が大量に入り込んでいます。今回の条例と法改正は、正にそのことをさらに拡大するものです。


 私達東京管理職ユニオンという労働組合は、かつて、2001年5月11日に警視庁公安二課によって、全くいわれのない容疑で42名の私服警官による不当な捜査を受けました。この不当捜査は何を目的に実施されたのか全く不明なものでした。逮捕も起訴もなく、捜査だけがなされ、膨大な資料と情報を警察は確保して終わりました。その後、新聞記者たちの意見の中で、警察が過剰に当労組を「敵視」し、「情報収集」したがっていたことが分かりました。


 又、私達東京管理職ユニオンに対して、1995年当時、日経連が月刊「経営者」という自ら発行の雑誌で「暴力団的・ヤクザ的傾向がある」と評論したことがあります。日経連及び一部の経営者たちは私達をそのように見ていたのかと唖然としました。


 今日でも、否今日だからこそ、私達の労働組合活動に、戦前のような「反社会的団体」としての評価を下し、今回の法律・条例のような対象とすることは、明白に読み取れます。暴力団に加えられた行き過ぎのこの抑圧は、同時に私達にも加えられてくる抑圧だと思います。


 皆様の意見表明を支持するとともに、私の見解をここに表明いたします。


2012年1月27日 


http://www.bouhai-hantai.com/koremadeno/related_news/mu-tokyo