伏見憲明「さびしさの授業」イースト・プレス


さびしさの授業 (よりみちパン!セ)

さびしさの授業 (よりみちパン!セ)


 この世の中をどんなふうに歩んだらいいか、「私」と「世界」のつながりかたを中高生に指し示す書である。


 たとえばいじめを受けたとき。「世界」は牙をむいて襲いかかってくる。あなたの自尊心は踏みにじられ、「孤独」を実感せざるをえない。傷つき迷えるあなたに、どうすれば生きる場を見つけることができるのか、「シックス・センス」「赤毛のアン」「X−メン」「千と千尋の神隠し」などの映画や小説などの「物語」を例にあげながら、「世界」と「私」の関係を、平易に説き起こす。


 著者の伏見憲明は、ゲイであることをカミングアウトし、同性愛問題についての発言の多い論客。彼が「X−メン」について取り上げているのが興味深い。「X−メン」の監督ブライアン・シンガーも、自身がゲイであるとカミングアウトしている。「X−メン」には、表面的にはマイノリティであるミュータントの苦悩を描いているが、それは同性愛者の苦悩の暗喩だと言われている。


 本書では著者自身がゲイであることには言及していない。しかし、筆者がゲイであることを考慮に入れて読むと、著者の切実さがはっきり見える。たとえばこんなちょっとした文章でもそうだ。


 子どもの頃のぼくは、「変わっている」といわれるたびに、自分が何かやましいことをしているような気持ちになって、心の中で自身を責めていたのです。もっとふつうにならなければ、と。
 しかし今考えてみれば、それは子どもの僕が悪いのではなくて、ぼくを受け止める身近な人間たちの想像力に限界があったということでしかないのでしょう。○○歳くらいの男の子はこういうものである、という彼らの頭の中の常識よりも、事実はもっと多様で複雑だったわけです(31ページ)。

 深読みのしすぎかもしれないが、「変わっている」というのはゲイである著者への世間の冷たい目であり、「身近な人間たちの想像力には限界があったというのは、同性愛問題に対する世間の狭量さだと読める。


 優れた文学や映画は人生の教科書だ。いじめや差別にさらされている子どもたち、マイノリティであることに苦しむ人たちにとって、マイノリティの側からの、本書のような誠実で丁寧に紡がれる解説は、きっと生きるヒントを与えてくれる。


 これに対して、高校の教育の現場で、マイノリティの子どもたちに有効な手を差し伸べているのかと言えば、いささか疑問が残る。高校では、どんな大学へ行けばいいか、どんな企業に就職したらいいかは教えてくれるかも知れないが、打算的で薄っぺらな社会観・人間観しか示すことができていない場合が多いのではないか。


 「みんな他人には理解しあえない孤独を生きています。だからこそ、切実に誰かを求めずにはいられない。そんな気持が少しわかるだけで、ぼくらはもっと他人に優しくなれるし、互いを大切にしようと思えるようになります(146ページ)」「自分のさびしさを手放さずに、大事なものとして抱えていくことの大切さ」を、オイラは声にしていかなければならないのだと改めて感じた。