「お富さん」と「岸壁の母」



 「お富さん」という、昭和29年に発表された春日八郎の歌がある。この歌は、歌舞伎の『与話情浮名横櫛』(切られ与三郎)の情景をそのまま歌ったもので、大ヒット、125万枚を売り上げた。流行歌の題材を歌舞伎にとるというのは、今ではあまり考えられない。昭和29年当時、「お富与三郎」は、ある種の国民的教養だったということだろう。「玄冶店(げんやだな)」なんて、歌舞伎を知らない今の人には、何のことかわかるまい。


 そして「岸壁の母」である。これも有名な曲だ。昭和29年、菊池章子によって100万枚の大ヒット、のち昭和47年(49年?)に、二葉百合子がセリフ入りで歌い260万枚の大ヒットとなった。オリコンの年別ランキングで見ると、昭和50年の年間ランキングで5位に入っている。オイラはずっと勘違いをしていて、二葉百合子が最初にこの歌を歌ったと思っていた。おばさん然とした二葉の風貌のせいで、懐メロの人だと思い込んでいたのだ。二葉あき子とごっちゃにしていたのかも知れない。コテコテのクサい泣きが苦手で、聞きこみたいと思ったことはなかったが、今回改めて聞きなおして、表現の豊かさや、年齢を感じさせない声の強靭さには、ちょっと驚かされた。


 二葉百合子浪曲師である。浪曲は、昭和30年中頃までは娯楽の中心だった。昭和30年前半には、ラジオの聴取率の上位を独占していたし、三波春夫や村田英雄など、浪曲出身の歌手も多かった。私事であるが、昭和6年生まれの死んだオイラのオヤジは、まったくの音痴で、歌謡曲はほとんど興味がなかったのにもかかわらず、浪曲は好きだった。今では考えられないほど、浪曲は身近な娯楽だったのだ。
 浪曲の他にも、芸能の中には衰退してしまったものはいくつかある。衰退したのはなぜだろう。一般には、テレビの台頭や娯楽の多様化が挙げられるが、しっくりこない。同じ芸能でも、落語や漫才、演歌はその後も隆盛を極める。なぜ衰退したものと生き残ったものがあるのだろうか? 説得力のある説明を聞きたいものだ。


 ともかく言えることは、昭和30年代に、日本人の教養は大きく変化したということだ。「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉があるが、歌に刻印された意味を読み解くことで、時代の変化が分かる。演歌だって、川上音二郎の「オッペケペー節」の流行した明治時代までさかのぼれば、自由民権運動の壮士によって始められた政治的メッセージのこめられたものだったのだ。実際にその時代を生きている人々にとっては、今がそうであるように、時代の変化は意外とわかりにくい。


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