内田樹/光岡英稔「荒天の武学」集英社新書


荒天の武学 (集英社新書)

荒天の武学 (集英社新書)


 本質的で刺激的な話題にあふれ読みごたえ十分。合気道7段の内田樹先生と、中国武術韓氏意拳の光岡英稔氏の対談本である。


 光岡の目指しているのは、ルール化・競技化された「武道」ではない。銃やナイフを突きつけられた時の具体的な技法の練成である。日本では数少ない取り組みだそうだ。
 光岡は銃犯罪の多いアメリカで少年期青年期を過ごした。規格化・同質化の強い日本とは違い、アメリカは自己規律の国である。自分の身は自分で守らなければならない。光岡は、ハワイでワイルドな武友たちと、週末ごとにストリートファイトに興じていたという。そんな中から、彼の武道は生まれてきた。


 光岡は言う。「思うに武道から生々しさが消えたのは、戦いとはあくまで人を相手とした、一対一の関係性での争いだという常識が社会的に共有されたからではないかと思います(37ページ/光岡)」そう言われて初めて、武道は一対一で行うものという「常識」に縛られていたことに気づく。ハワイでのストリートファイトがそうであったように、戦場では一対多の状況が当たり前。そうした状況の中で、どう闘うかを追求するのも「荒天型」の武道家の要素であるという。


 「競技化してからの日本武道は完全に晴天型になったといっていいと思います。武の本質を考えたら、自前で食糧を確保したりすることも大事で、たとえば火を起こして煮炊きをするだとか、生きていく術を様々な方向から見ていかないといけないわけで、結局、腕力だけあっても物理的に食べられなくて死んだら負けなわけです(37ページ/光岡)」


 「達人と言われた人たちが現代に生を享けていたら、たぶん黙々と剣術の練習をしていないと思います。・・・・それこそ原子力について勉強したり軍事力の研究をしつつ、それらが生み出す問題を回避する研究も合わせて進めていたと思います。本来はそういうところも含めて、武ではないでしょうか。(57ページ/光岡) 


 もう発想からして違う。哲学的で刺激的だ。だからこそ内田樹も光岡に魅かれるのだろう。当時50代の内田樹が「この人を先生と呼ぼう」と決意したとき、光岡英稔はなんと二十代の終わりだったそうだ。


 「武道の場合、哲学がカウンターパートにあってバランスを取っていないとうまくいかないような気がします。・・・・・武道の他に会社勤めをしたり、自営業をやっている人は、どこか狭いんです。なんていうのかな、世界性を目指して稽古しているという感じがしない。稽古をすると組織マネジメントがうまくなるとか、営業成績が上がるとか、なんかそういう世俗的な成功を修行の「成果」にカウントして、それで結構満足してしまう。・・・・・でも、それで武道修行の目的は尽くされない。もっと広がりのあるものだと思う。(100ページ/内田)


 真に優れた武道家は、優れた思想家でもある。「身体感覚」という、人間の奥深さに通じる共通項をもとに、思想と武道が相通じるものであることを認識させてくれる好著である。