秋田光彦氏の文章に感銘を受ける



 高校地歴科の教員であるオイラは、世界史Aの授業を受け持つにあたって、今年の4月から、毎時間のはじめに、15〜20分ほど、教科書の内容から離れたことを喋ることにしている。


 最初は気軽な気持ちで始めたが、これがなかなか大変。いくら高尚なことを喋っても、目の前の高校生の興味関心からズレた内容であれば、食いついてくれない。テストに出るわけでもないので、面白くなければ寝てしまう高校生もいる。オイラの人間性が出来ていないので、あからさまに「興味がない」という姿勢を取られたときは、一学期には内心気分を害したときもあった。最初から教科書の内容を喋った方が、どれだけラクだろう。何を喋ろうか、どう喋ろうかと、そればかり気になって、二学期になっても日々悶々とする日々だった。


 そんなとき、Facebookで見つけた秋田光彦氏の文章、これがとても印象的だった。


 本当に語るべきものが少なくなった。Facebooktwitterや、恐らくは語りの総量は過剰なほど急増していのだが、伝えるべき実体は枯れていく。ドロドロとしたテキストの濁流に、人々は呑まれつつある。


 私は幼稚園の園長も兼ねているので、体験的にわかるのだが、たとえば幼稚園で子どもの前に立つと、大人が語るべきことは制限される。子どもの聞き取り能力や集中力にも関係するが、一番肝心なことは、未来ある人に、何を語るべきなのか、と誰もが無意識に思慮しないではいられないからだ。経済とか景気とも、健康や恋愛や、そういうトピックスが通用しない相手に、私たちは戯れ言を言って紛らわすしかないのだ。


 仏教の語りについて関心が集まっている。説教や絵解き、落語も含めれば、確かに「仏教芸能」の裾野は広い。長い時間をかけて磨き込まれた、生の言葉の躍動や強度、核心に、ネットにある言葉とは異質のものを感じ取るからだろう。


 むろん人間国宝のような演者による珠玉の古典芸も値打ちものだろう。だが、本当に求められているのは、懐古的な古典ではなく、そこから現代に語られるべき言葉の核心にふれたい、という人々の無意識の欲求が現れている。高度な知識とか最新情報とかいうのとは違う。例えばベッドサイドで死に逝く人に、何を語り伝える、あるいは伝えられるのか、そういう言葉の情動を感取したいのだと思う。


 仏教の語りは古くさい、形式的だ、といわれるが、言葉そのものではなく、今を生きる人にリアルが響かない、その経験や表現の硬直化にあるのではないか。


 仏教は哲学である以上に、身体を伴う物語でもある。仏教芸能に人々が魅了されるのは、生き死にを超えた普遍的な表現の感度にあるのだろうし、またそれが自分の経験の深部のどこかに共振するからだと思う。

 
 来月9日夜に、應典院で「いのちとカタリ〜仏教の語り技、教えます」を開催する。


  1部が信州・長谷寺の住職夫人岡澤恭子さんの涅槃図の絵解き、2部は上方講談師旭堂南海さん、浄土数僧侶で臨床仏教者でもあり大河内大博さん、宗教学者釈徹宗さんが語り合う。宗教、ケア、そして芸能…どんなシャッフルが起きるだろうか。ぜひ参加してください。シェアお願いします。


 詳細 http://www.outenin.com/modules/contents/index.php?contentid=787


 自分の経験に響いてこない語りは、語りではない。誰かが見てかりそめの騙り(かたり)だとしても、人は事実よりも自分にとっての「真実」を選び取る。そう思う。


 秋田光彦氏は、宗教者としては、極めて特異な経歴の持ち主。若い頃は、情報誌「ぴあ」に入社し、映画祭を企画/宣伝したり、退社後は、映画製作会社を作りプロデューサーや脚本家を務めたという。「「狂い咲きサンダーロード」や「アイコ16歳」などの製作/脚本に関わった」と書けば、1980年代初頭の映画状況を知っている人なら「おおっ」と思うに違いない。


 彼の人生は、31歳でガラリと変わる。彼は僧籍を得て、大阪の大蓮寺を継ぎ、その境内の一角に「應典院」を作る。「應典院」は、ホールやギャラリーを持つ寺院。そこでの催しは、信者の集まりや能などの古典芸能ではなく、むしろ若手による野心的な小劇場演劇などが多い。


 仏教と若手演劇、一見何の接点もない。だが寺院は元来、地域の教育文化の担い手だった。寺子屋や芸能などは、伝統的に寺院で行なわれてきた。葬送と檀家制度の枠の中だけに閉じこもるのではなく、ひろく「文化」を通じて人と人が集う公共的空間を復興しようという姿勢が、こうした秋田氏のなかに見える。こうした取り組みには、素直に頭が下がる。


 そんな秋田氏だから、「語り」がちゃんと機能しているかどうか、今の人にリアルに響くかどうかを、敏感に問い直そうとしているように思える。考えてみれば、「仏教の語り」が、閉ざされた「信者」間の内輪の言葉から放たれて、白日の下で語られる機会は、きわめて稀だ。


 彼の文章は、次の言葉で締めくくられる。「自分の経験に響いてこない語りは、語りではない。誰かが見てかりそめの騙り(かたり)だとしても、人は事実よりも自分にとっての「真実」を選び取る」


 深い言葉だと思う。語り手側も、何をどう語るべきなのか、否応なしに考えさせられる。何となく高尚そうなことを語って事足れり、芸術性や伝統性に弱いインテリは、そういう言葉に逆に目をくらまされるかも知れない。だが、多くの人々には届かない。また逆に、その言葉が、まがい物でも、そこにいる人の心に届く場合もある。受け取る側の「学び」のイニシアティブは「学ぶ側」が持っている。事物から真実を見つけだすのは「受け取る側」なのだ。


 オイラは教育の世界に身を置いているので、「仏教」を「教育」に置き換えて考える。教育でも、今、何をどう語るかは、とても難しい。秋田氏は幼稚園児の例を挙げているが、幼稚園児を高校生に変えても、実は同じようなことが言える。「高校で子どもの前に立つと、大人の語るべきことは制限される」。そう、そのことで悶々としていたのだった。高尚で学究的なことを喋っても、一般的な高校生には届かない。これほどまで理解されないものなのかと、オイラは最近よく思う。教師になりたての頃は、オイラの言っていることは、ほぼ理解してもらえた(と思っていた)。理解されないなどと考えたことはほとんどなかった。最近は、高校生にも同僚にも管理職にも、理解されていないと感じることの方が圧倒的に多い。これが主観の問題なのか、単に年を取ってオイラがズレているだけの問題なのか、そこは検討の余地があるだろう。


 オイラは高校生に対し、迎合的に喋らない。複雑なことを、複雑に喋る。教師の多くは「子どもにも分かるように」迎合的に、わかりやすくして喋る。だがそれは、多くの場合、たとえて言えば、テレビの表現が、観客に迎合して、過剰に説明的になるのと同じことのようにオイラには思える。高校生の知性に対する信頼と敬意があればいいのだが、分かりやすくするために、むやみに物事を単純化したり、マニュアル化したりする風潮はいただけない。媚びを売っているように見える。考えが及んでいない。手垢のついた、無難で決まりきったフレーズを繰り返しているだけで、何も語っていない。そしてそのことに気がついていない。語りの困難性も抱えていないようだ。秋田氏の言う「ドロドロとしたテキストの濁流」に、今まさに、呑まれつつあることすら気がついていないかのように見える。


 もちろん、そんなオイラの言葉も「戯れ言」に過ぎない。それくらいの自覚はある。それでも、オイラがこうして語っているのは、オイラの「語り」の一片から、誰かが、何らかの「真実」を選び取ってくれるのではないかという、一縷の望みを持っているからだ。自分の言うことは、「全員には」伝わらないかも知れないが、可能性が1%でもあるのなら、せめて矜持を保ちながら、オイラの思っていることを、条理を尽くして妥協せず偽りなく言おうと思う。


 思っていることを吐きだしたら、気持ちが軽くなった。「学び」のイニシアティブは「学ぶ側」が持つ(これは内田樹の言葉でもある)。たとえオイラの語りが、かりそめの「騙り」だったとしても、そこから何らかの真実を見つけだすのは「受け取る側」なのだ。ならばオイラの語りが、多くの人に「くだらない」と思われても、それはよしとしよう。「学ぶ側」に必要以上を求め、返してくれないことにイライラするのは、もう終わりである。ただオイラの話を面白いと思う人がわずかでも現れたら、そこでオイラが話す意味はあるのだ(了)。


仏教シネマ (文春文庫)

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