「ある精肉店のはなし」



 大阪貝塚市にある「北出精肉店」をめぐるドキュメンタリーである。北出精肉店は、単に肉を仕入れ小売するだけの店ではない。小牛から自分で育てた牛を、小規模な市立の屠場で、自らの手で屠畜して、放血し、皮をむき、腹を割り、内臓処理を行う。


 冒頭は、牛小屋から住宅地を牛を手でひいて屠場へ向かう場面。屠場に着き、ハンマーで牛の眉間を強打して「一発で決める」。そして家族で内蔵を切り分けていく。すべての工程が、近代的な屠場では見られなくなった、手作業で行なう零細で昔ながらの作業が見られる。


 カメラは、北出精肉店の人々の「日常」を淡々と追う。1年以上かけた誠実な取材のせいか、被写体のひとびとは、リラックスしてとても自然に見える。徹底的に日常を描くから、普通の人たちの日常の中のさざ波が、なかなかにエキサイティングに立ち上がる。屠畜や精肉の他にも、食事があり家族の交流があり、太鼓の皮張りがあり、盆踊りがあり、だんじりがある。母校での講演があり、長男は結婚し、老いた母はさらに少し老いた。ゆっくりとした時間が過ぎていく。


 そこにあるのは、最近はめっきり少なくなった、家族を単位とし、地域に根付いて、家族内が協同し労働に従事する人々の姿である。かつて日本の市井の人々は、多くがこうした生活をしていたのだ。


 監督の纐纈あやは、前作「祝の島(ほうりのしま)」で、上関原発建設に反対する山口県祝島の人々の姿にカメラを向けた。その島では、現代社会ではほとんど喪失してしまったコミュニティが息づき、ゆっくりとした時間の中で、自然のサイクルと調和しながら人々は暮らす。その様子を共感をこめて、その時間そのものをじっくりと描いてみせた。「ある精肉店のはなし」も「祝の島」と同じように、皮革・精肉を生業として、生と死の自然のサイクルの中で生きる昔ながらの人たちを描く。


 ウィキペディアによると、儀礼における祝いをあらわす「祝(ほうり)」という語句と「屠り(ほふり)」という語句は語源が同じなのだそうだ。監督の問題意識はひとつづきであり、そのまなざしにブレはない。


 「私たちは、あらゆる生物の生命を、いただきながら生きている」。その厳粛な事実を本作は改めて思い出させてくれる。私たちは、うまい肉に舌鼓をうつ。その肉はもともと生き物の一部である。だが、どこかで誰かがそれを育て、さばいていることを、私たちは忘れがちだ。屠畜を汚らわしい仕事と見なし、皮革・精肉業に従事してきた被差別部落の人々を、われわれの社会は差別してきた。想像力の欠如と、自然のサイクルの中で生かされているという認識が欠落してしまうことが、差別を生み出してきた。


 本作は、反差別のメッセージを声高に叫ぶわけではない。生きることの本質的な意味に向いている。文明を享受する代償として、私たちがふだん忘れていることを考えさせてくれる。作り手の視点の射程は長い。


 本作中、屠畜は二度行われる。二度目は内蔵処理などがかなり詳しく描かれる。包丁が躍動的に動く。ホレボレする。それは我々が生きるために不可欠な行為。そのことが理解できるように作られているからこそ、二度目の見事な作業は見せ場として成立している。北出家の人々の生き方に次第に共感していくように、作り手がうまく仕向けている。なかなかに巧妙だ。


うちは精肉店

うちは精肉店


 映画のなかで描かれている屠畜の様子を写真絵本にしたもの。ルビがふってあるので、子どもにも紹介しやすい。またパンフレットもイラストや批評、企画ページが充実していて、とてもいい。思わずそれぞれ買ってしまった。


■[映画]「祝の島」その2
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20120114/1326528575