第27回高知県高等学校演劇祭 その6


上演7 土佐女子高 市原菜乃・土佐女子中高演劇部作「フィナーレ」


 心に闇を抱える少女とサーカスの団員の交流を描く。凝った舞台美術である。効果的なボールと太鼓などの書き割り。正面奥に階段、立体的な配置。カラフルな色彩のバランスを考慮した衣装。動きも細かくつけられていて、サーカスっぽい動きがサマになっている。かなり丁寧に、一生懸命作っていることに好感が持てる。


 ただ「サーカスを再現」することを、舞台作りの目的にしない方がいい。いくら作り込んだとしても、本物のサーカスには及ばない。しょせん舞台の上のものは「嘘」。そのことを了解したうえで、観客もまた見えないものを想像力で補いながら舞台を見ている。ならば、その想像力をテコにして、サーカスではない舞台の上の役者や舞台美術が、「サーカスのように見える」面白さを追求した方が演劇的だし、効率的だとオイラは思う。ひょっとしたら「何もない舞台」に「Tシャツ」のピエロでも、観客はそこに「サーカス」を感じるかも知れない。少なくともオイラは、解釈の余地の大きい、想像力を刺激されるアプローチの方を、より洗練された演劇的な表現だと見る。


 演劇は観客の想像力の助けを借りて成立する。だからたとえばこんな展開にすることもできる。「サーカス」っぽい動きをする得体の知れない人びとが現れた。退屈でくすんだ日常の中に生きている少女は「それをサーカスだと思いこむ」。ひょっとしたら彼女の妄想かも知れないその人たちと、少女は交流を深めていく・・・・。
 サーカスの人びとの実存を少女自身に解釈させる。観客には少女の目を通すことで感情移入させ、「得体の知れない人たち」を、少女の主観を交えてサーカスの人びとと了解させる。そうすれば「サーカスの人びと」が本物のようであることに、それほどこだわらなくてもいいし、同時に少女の不安定さも表現できる。もちろんこれは一例にすぎない。土佐女子の皆さんは、そんなありきたりな展開は使いたくなかったのかも知れないが。


 サーカスは内側に閉じこもっている少女の内面の声。サーカスの団員は女の子が作り出した妄想。つまり彼女自身である。ここには「他者」がいない。少女とサーカスの団員たちとの会話は、実は少女のモノローグ(独白)なのだ。会話が説明的に感じられるのはそのせいであるとオイラは思う。
 内なる声のディスカッションによって少女がカーテンを開き外の世界へ出ていくのではなく、団員や少女を脅かすような「事件」が起こることによって、何らかの関係の変化がおこり、そのことが少女が外部に出ていく契機になるのだろうとオイラは思う。