演劇部の稽古を見に行く。


 県大会に向けて本読み。


 顧問のオイラは、前日にほとんど寝ていないせいもあって、ちょっと離れたところで、だらだらしながらセリフを聞いていた。


 始めたばかりの部員たちの本読みは、全体に少々うわずった早口。文字を追うのに精一杯という感じ。セリフとセリフの間が詰まっている。


 「何を言ってるのか、わからないよ」オイラは口をはさむ。「分かるように会話して」


 すると、滑舌を意識したこわばった不自然な喋りに。改善の方向が違うよ、と心の中で思うが、今度は止めない。自主性に任せるのが自然だ。


 一通り終わった。駄目出しをしてくれというので、少しだけ話をする。


 「何を言ってるか分からないのは、滑舌が悪いからではない。役者に実感(イメージ)とリアクションがないからだ」「観客は、セリフを聞いて瞬時に直後にその意味を把握するとは限らない。間や反応を見て、先のセリフの意味をトータルで事後的に理解することもある。間や反応こそが会話を読み解く手がかりなのだ」「ところが君たちは、セリフとセリフの間をつめた。実感をおろそかにし、リアクションをほとんどとらなかった。セリフに意味を読み解く情報がない、だからセリフが読み取れないのだ」「滑舌を意識しすぎると、セリフに緊張が走り、芝居くさい作為的なセリフになる。そういうセリフ回しは、いま求められていない」「根本的に考えを変えよう。読むことに専念してはならない。本読みは、「読む」よりむしろ「聞け」、そしてリアクションだ」


 部員たちは「はい」「はい」と聞いている。「わかった?」と聞くと「わかった」と答える。けれども、おそらく分かっていないはずだ。オイラの言葉は、彼女たちにとっては、理屈でしかないからだ。彼女たちは、その理屈をアタマでとらえただけだ。実感がない。彼女たちの身体が理解するのは、もう少し後だろう。


 理屈を聞いて、分かった気になって(分かったふりをして)、事後になって(おそらく立ち稽古になってから)、稽古に対するオイラのリアクションを見て、混乱し、何度も繰り返した後、真にわかったと実感する。そうした理解のタイムラグは、セリフ理解のメカニズムと、実は相似形にあるのだ。